FORGOTTEN NIGHTMARE
Forgotten Nightmare 2011/08/19
"Overture"
MOBILE MODE
(スマホ等をお使いの方向け)
※当作品は、2011年8月19日に初版公開した
「FORGOTTEN NIGHTMARE : DARK CARNIVAL」を
現在のネクロランドの事象に合わせ再編集した作品です。
これは、今から10年以上前に書かれたネクロランドの姿。
ネクロランドに住人が集い、文化が芽生え、国として廻り始めた頃の事。
まだ狩りに不慣れで、伴侶として結ばれる前のフェリエッタとルル。
悪夢に拾われたばかりで、人の言葉が不得手なアリス。
―この全ては懐かしき、悪夢の残り香。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
Forgotten Nightmare - Overture
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
物語は終わる。
必ず最後に終焉が待ち構えているからこそ、それを物語と呼べるのだ。
美しい音楽は静寂へと変わり、展覧会には出口が待ち受ける。
心打つ映画には人名の羅列が流れ出し、この小説にも最後のページがある。
だとすれば、最後に死というページが待ち受ける全ての生命もまた、
それぞれが物語なのであろう。
それが幸せに満ちた童話か、滑稽な笑いの絶えない喜劇か。
若しくは、酸鼻で、陰惨で、残酷で。
慟哭と痛みに満ちた救いようのない悲劇か。
物語は終わる。
それが受け容れ難い惨劇だとしても、息は止まり、鼓動は消え、温度を失う。
それを見た観客が深く悲しみ、不平を嘆いて目を覆っても結末は変わらない。
語られ尽した物語は過去へと溶け込み、やがて土の下で永遠に忘れられる。
―しかし、語りきれぬ物語には続きがある。
散りばめられて、語りきれなかった複線を辿る為に。
成し得ることが出来なかった、もう一つの結末に辿り着くために。
土の下から這い上がり、物語は続いていくのだ。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
prologue
薄紫色の朝霧が、どこまでも続く森を覆う。日はまだ昇らず、
青白い微かな光が森の奥から届き始める。
足元に点々と生える色とりどりの野草には朝露が輝き、
頭上は空を覆う黒いベールのように、
延々とそびえ立つ大きな針葉樹の枝で覆われている。枝と葉の上を、
様々な野鳥達が飛び交う。
ここは東ヨーロッパの外れに位置する小国、シャルドリアのモアルテ山脈だ。
標高は決して高くなく、なだらかな森林がその殆どを占めている。
また、一年を通して気温や気候の急激な変化も少ない。
しかし、深い霧と目印のない広大な樹海に、少しでも不用意に深入りしてしまえば、
余程山歩きに精通している人間でもない限り、無事に戻って来ることは難しい。
・・・そのはずだ。だが何かがおかしい。突然、煙幕のような紫煙に包まれ、
気温も湿度も、まるで違う。一体何処に迷い込んでしまったのだろうか。
この場所が、現実である確証すらも無くなってくる。
「おい・・・ オーティス、もう少し休ませてくれ」
赤色のチェックシャツを着た二人のハンターが、猟銃を杖にしてよろよろと彷徨い歩く。
疲れきった声をあげたのはひょろりと背が高い、大きな眼鏡をかけた男。
対して、もう一人の男は彼に比べて背が低く、小太りで黒い顎ひげを生やしている。
どちらも薄くなった頭皮を赤の野球帽で無理に隠した中年で、
お世辞にも格好がいいとは言えなかった。
「ニルソン! さっき休んだばっかじゃねえか! 急がねえとまた日が落ちちまうぞ!」
小太りの男、オーティスが声を張り上げる。ニルソンと呼ばれた彼は、
精魂尽き果てた様子で足元に倒れていた針葉樹に座り込む。
「もう三日も遭難してるんだぞ・・・ 獲物なんか諦めて早く助けを・・・」
「うるせえ! こんなウマい話をふいに出来るか!
夕飯にお前を食ってでも俺はキツネを仕留める!」
オーティスも疲れきってはいるが、まだ目は欲望にギラギラと煮えていた。
米国に本社を置く、粗悪な偽物商品を高値で売りつけては消える悪徳業者。
オーティスはその社長である。
マスコミや新聞社に取り上げられては裁判沙汰になる彼を弁護する専属弁護士が、
相棒のニルソンだ。
あの手この手で大金を巻き上げては消え、
被害者が起こす裁判では、弁舌の利いた名弁護で無罪を勝ち取り続けていた。
しかし、この森にはおべっかを使い、
気が利いたレストランへと招待する彼の有能な部下も居なければ、
法外な金額の弁護料を請求し、数十年に渡って数々の依頼者から荒稼ぎした、
大金入りのクレジットカードを使える店もない。
座り込み、うなだれるニルソンに苛立ちを見せるオーティスも、
ふと現実に戻されて強烈な喉の渇きに襲われる。
オーティスは横幅の広い彼にぴったりの、
かなり大きなサイズのシャツの胸ポケットから、
ウイスキーの入った平たい金属製のボトルを取り出す。
キャップを回し、あんぐり開けた口の上でボトルを逆さにする。
「・・・すっからかんだ、くそったれ!」
高級品の空ボトルを芝生と野草が覆う地面に叩きつけ、
蹴飛ばして悪態をつくオーティス。
「おいニルソン、お前のウイスキーをよこすんだ!」
「ウイスキー? 冗談だろう? 昨日の晩に最後の水を飲んじまったじゃないか!
パンのひとかけらだって残ってないんだぞ?」
一攫千金の夢から覚めた現実は過酷そのものであった。ウイスキーはおろか、
食料も、水もない。森を脱出する手掛かりは欠片もない。
それらが意味する物は、ごく単純な絶望だった。
「はぁ、こんな事ならとっととあんたの専属を辞めて、フリーに戻るべきだったよ・・・」
「何言ってやがる! 俺もお前もあの忌々しいマフィアどもに目を付けられてるんだぞ!
逃げでもしてみろ、次の日の朝刊で有名になって終わりだ!」
「会社が傾きかけた時に、辞めるべきだったと言ってるんだよ。
マフィアなんかに大金を借りる前にさ・・・」
彼らの会社は近年、倒産寸前まで業績が悪化していた。度重なる裁判に、
降り注ぐ雹のようなマスコミのバッシング。
消費者達の意識は急激に高まり、ダイエット食品と偽った不味いキャンディや、
余り物の部品ででっちあげた高性能掃除機、
使えば薄毛が劇的に改善する事にした、奇妙なマッサージ機などが在庫の山となり、
ただでさえかさむ倉庫代を圧迫していた。
そこで倒産してしまえば、詐欺や薬事法違反で逮捕されるだけで済んだ。
しかし、オーティスは一度掴んだ栄光を手放せず、
あろうことか裏社会を牛耳る巨大なマフィア組織から、
数千万ドルの大金を借金してしまったのだ。
一時は息を吹き返したものの、
すぐにまた業績を示す赤線は倒産という地べたに向かって墜落を始めた。
倒産寸前の身に、利子の付いた数千万ドルの大金など返済できる訳がなかった。
そんな折、オーティスは借金の取立てに来た数人のチンピラ達に、
金、銀、黒。様々な種類の拳銃を突きつけられながら、
このヨーロッパの小国にだけ現れるという希少な狐の話を聞かされた。
シャルドリアン・フォックス。体長が普通の狐の倍もあり、美しい毛並みを持つと言う。
その狐の毛皮を、マフィア組織のボスが喉から手が出る程に欲しがっているという話だ。
もしも、伝説の狐を仕留める事ができれば、全ての借金を帳消しにして、
金輪際、命も狙わないという口約束。
後がないオーティスは、狩猟の経験があるニルソンを連れて、
はるばるこんな偏狭の地へとやって来たのだった。
「俺は確かに見た! あのバケモノ狐が尻尾をまくって向こうに逃げていくのをな!」
「見間違いさ。やっぱりただの迷信だったんだよ・・ きっと俺達は騙されただけなんだ・・・」
「黙れ根性なしが! 俺はあいつを仕留めて金を頂き、借金を返して遊んで暮らす!」
「分かったよ、どうせ今日もキツネどころかネズミ一匹見つからないさ・・・」
首を横に振りながらひょろ長のニルソンは重い腰を上げた。
手のひらに乗せた方位磁石の針はぐるぐると回り、目印などは何一つなかった。
あてもなく彷徨う二人に、濃さを増した確かな絶望が忍び寄り始める。
「全く、こんな身勝手な調子だから、何度結婚してもすぐ嫁に逃げられるんだよ」
「うるせえなヒョロ長! 社長様の俺が雇ってなけりゃ、今頃てめえは一文無しの
デクノボーだろうが!」
「その社長様のあんたを何度も法廷で無罪にしてやってるのはどこの誰だい?
全く・・・」
その時、霧の向こうの木陰でふわりと金色の何かが動いた。
先に見つけたのは、キツネの話を信じていないニルソンだった。
驚いて、先を歩くオーティスの禿げ頭を叩く。怒って振り返るが、
指差す方向を見て息を呑む。
杖代わりにされて土と雑草で汚れた猟銃を慌てて構え、近くの木陰にべったりと伏せて双眼鏡を覗き込む。
ピンと立った大きな耳。美しい金色の毛並み。ふわふわと揺れる金の尻尾。
百メートル程離れてはいるが、それは狐の特徴そのものだった。
しかもかなり大きい。普通のキツネの倍は優にある。
それはまさしく、オーティスの見たバケモノ狐だった。
「やったなオーティス! これで俺達、平穏無事に暮らせるぞ!」
オーティスは思わず声を漏らしたニルソンの頭を殴り、
口に人差し指を当てて“静かに”の身振りをする。
じっと見つめる二人。狐には動く気配も、二人を警戒する様子もない。
にやりと不揃いな金歯を見せて笑い、
水平二連式の猟銃の上部にあるレバーを親指で押し、機関部と銃身の接合部分を開く。
回転軸からL字状に折れた銃身の根元へと、一つずつ、二発の散弾を込めるオーティス。
カシャリ。軽い音を立て、開いた銃身を戻す。
それを見たニルソンも慌ててスコープ付きのライフル銃の左脇に付いた、
ボルトと呼ばれる部分のレバーを真上に立て、後ろに引く。
開いた薬室に直接細長い弾丸を込め、ボルトレバーを前進させて戻す。
カチャリ。銃らしい、金属音が森に鳴り響いた。
伏せたまま銃の先端を巨木の根に置いて安定させ、二人は狐に狙いを定める。
ふと、ニルソンが焦る。杖代わりにされたライフルの望遠スコープは、
朝露と土で汚れきっていた。
ズボンの尻ポケットから眼鏡拭きの布を取り出して、
スコープの前後のレンズを素早く拭う。
「いいか、俺が三つ数えたら一気に撃て。今度逃がしたら承知しねえぞ」
オーティスが息を殺して囁く。二連式のそれぞれの銃身に対応した、
前後にズレて配置された二つの引き金に、人差し指と中指を掛けて、片目を閉じる。
ニルソンもスコープに描かれた十字の中心から僅かに下に、
ふわふわと揺らめく金色の影を捉える。
一つ、二つ、三つ。
ズダダァァン!
息を合わせて二人は、同時に弾丸を撃ち込んだ。
森に響き渡る轟音。狙いをすましたニルソンのライフル弾と、
二発を同時に発射したオーティスの散弾。
数十発の細かい散弾と、一発のライフル弾が空気を切り裂いて狐に迫る。そして。
「キャアアッ!」
・・・
ふわりと尻尾を巻いて、一目散に木々の間に消えていく狐を、
二人は唖然として見送った。
「ニ・・ ニルソン・・・?」
「聞き間違い・・・ だよな?」
二人の血の気が一気に引いて青ざめる。
それには確かに尻尾と耳があった。毛色も狐そのものだった。
しかし、撃たれたそれが発した声は、紛れもなく人間の、それも少女の声だった。
「あ、ああ・・・ やっちまった・・・!」
猟銃を放り投げ、頭を抱えるニルソン。
オーティスはだらだらと、冷や汗を垂らしながら立ち上がる。
「ま・・ 待て! まだキツネじゃねえと決まった訳じゃねえ! 血の跡を探せ!」
跳ねるように狐のいた場所に走り出し、その場所に着いた二人は再び凍りつく。
そこに血痕は無かったが、代わりに摘まれた白い花でいっぱいのバスケットと、
靴を履いた足跡があった。
「お・・・ 俺たち・・・ 見間違えたんだよ・・・!
三日も、三日も彷徨ったせいで・・・! ああ、ああ!」
「は・・ 早とちりするな! 血の跡はどこにもねえ! 多分奴には当ってねえ!」
もはや半狂乱のニルソンをなだめるようにオーティスが言った。
しかし、肝の小さい彼には逆効果でしかなかった。
「当ってないだと? だから何だ! 俺達の殺人未遂には変わりねえさ!
俺らは子供を撃っちまったんだ!
たとえ刑務所行きはどうにか免れても、俺達の仕事はおしまいだ!」
「黙れバカ野郎! こんな山奥に他に目撃者がいると思うか!
第一、俺らは顔を見られてねえ! とっととずらかるぞ!」
「ずらかる? 三日も手掛かりが無いのにどうやって森から出るんだよ!」
「三日、三日ってうるせえんだよこの三日月ハゲ! 黙って手掛かりを探せ!」
「お前もだろう満月ハゲ! お前が悪いんだよ! 全部お前のせいだ!」
罵り合い、会話の収拾が付かなくなり、
気の短いオーティスがニルソンを殴り倒そうとする。
その時、ふと地面に点々とつく足跡に気づく。
殴る姿勢のまま、互いに顔を見合わせる二人。
決して顔を見られてはならない、
銃で撃ち殺そうとした相手に迫るだけが脱出への唯一の手掛かり。
彼らはまるで餌につられて、自ら罠にかかりに行く狐のように足跡を辿り出した。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
朝日が昇り、薄紫の霧が薄くなり始める。
足跡を辿って、三十分程歩いたところで二人は愕然とした。
目の前の光景が信じられずに、口をあけて立ち尽くす。
そこには、見上げるほど大きな門と、城と見紛うほどの巨大な屋敷があった。
ありえない。地元の人間ですら年に何十人も行方不明になったきり帰ってこない、
忌われた森だ。
電気も水道も、道路すら整備されていないここに、屋敷などあるはずがない。
もしあったとしても、遠い昔に朽ち果てた廃墟か、城跡しか無いはずだ。
だが、屋敷の周りは綺麗に整備されて、
高い塀に沿う花壇には色とりどりの花が咲いている。
洒落た鉄格子のような巨大な黒い門に付けられた、
通常サイズの子扉は開け放たれたきり、
キイキイと音を立てて風で揺れている。
中に見えるあまりにも巨大な屋敷には、明かりもついている。
廃墟ではない。屋敷は生きている。これは夢か、現実かと目をこする二人。その時。
「道にお迷いですかにゃあ?」
心臓が飛び出るほど驚いて、振り返りながらドスンとしりもちをつく二人。
そこには先程の少女とは違う、若い女性が気配もなく立っていた。
控えめなフリルが付いた、
黒い落ち着いた雰囲気のワンピースドレス。長袖にロングスカート。
ひし形の大きなコルセットと、十字架が彫られた銀の鈴のチョーカーが異彩を放つ。
腰まで伸びた、真っ白に光る白銀色の髪。その上に被った大きな黒のボンネット。
そして何よりも目を引くのは、不思議な程に真っ白な肌と、
まるで獣のような、大きな深い青色の瞳だった。
スカートをつまみ上げて、丁寧におじぎをする。
そしてまだ幼さの残る端正な顔を上げると、
滑稽にしりもちをついた二人の大の男を見て、彼女はまるで猫のような声で笑い出す。
「にゃふふっ、随分お疲れのご様子ですにゃあ」
驚きのあまり放心状態だった二人は、自分達の置かれた状況の不味さにふと気づく。
狐と間違えて少女を撃ち、逃げた彼女の足跡を追って巨大な屋敷の住人に見つかった。
恐らく撃った少女もこの屋敷の住人。ここまで来るハンターなどそういない。
二人は同時に飛び起きる。先に口を開いたのは、嘘が下手なオーティスだった。
「い、いや俺達は鳥を捕りに来たんでさ!」
「そ、そうだ! 三日三晩鳥を探してたんだよ!」
「そしたらいつの間にかここまで歩いてきちまったんだ! いやあ、すまないね!」
「本当に失礼した! じゃ、じゃあ俺達はこの辺で帰るとするか!」
身振り手振りを交えた言い訳は支離滅裂で、誰が聞いても怪しさ以外は聞き取れない。
瞬き一つせずに、白い女性は静かに首を傾げた。
「ふふ、鳥を撃ちに。それにしては、お洋服が汚れていますにゃあ」
この樹海の木は背の高い針葉樹だ。枝にいる鳥を撃つのに伏せ撃ちは無理がある。
しかし言葉とは裏腹に、赤いシャツは前一面が土で汚れている。
一瞬で言い訳の矛盾を見破られた二人は、さらに焦りだす。
そんな二人と対照的に白い女性は終始落ち着いた様子で、独特の訛りで話し続ける。
「三日も野宿ではさぞお疲れでしょう。どうぞお上がりください。
朝食をご用意いたしますにゃ」
この三日間水筒の水とパン、
それに僅かなチョコレートとウイスキーしか口にしていなかった二人は、
焦りも忘れ、朝食という魔法の呪文に易々と負けて、
白い女性の招くままに屋敷の中へふらふらと歩いていく。
これでもかと装飾をあしらった、
一般的に広くイメージされる洋館と言った感じのバロック建築。
そこに加わる、空を串刺しにするかの如く、その屋根にそびえる細長い突起。
複雑な幾何学模様の枠にガラスをはめた大きな窓。
ドイツにあるケルン大聖堂のそれと良く似た特徴は、ゴシック建築のものだ。
広大な庭の中央では、何を模したのかも良く分からない程に、
彫刻だらけの大きな噴水が煌く水を絶え間なく噴き上げる。
指を差して階数を数える。
十二階建てだ。足を進めれば進めるほど、巨大な石造りの壁に圧倒されそうだ。
近づくほどに芝生の緑が視界からフェードアウトし、白と黒ばかりが目立つ。
他の色彩は目を凝らさなければ見当たらない。
先を歩く女性の、白銀色の髪と黒ばかりのドレスも相まって、
白黒写真の中に迷い込んだ錯覚さえする。
フリルの裾を揺らし、二人の猟師の前を歩く真っ白な彼女は、
背の低いオーティスよりもさらに小さい。
155センチ前後と言った所だろうか。どうしても不自然さを拭えなかったニルソンが、思わず口を開いた。
「あ・・・ あの」
「どういたしました?」
「い、いや、失礼ですが、お年はおいくつで・・・」
「にゃふふっ、幾つに見えますかにゃあ?」
噴水を囲むように敷かれた石畳の上で、彼女はくるりと踵を返して振り返り、
ぴたりと立ち止まった。
予想外の彼女の動きに、思わずヒヤリとする二人。にっこりと微笑んで、
後ろ手に手を組んで、可愛らしく首を傾げる白い女性。
背後にそびえる、まるでツノだらけの石の怪物のような屋敷と相まって、ふと、二人の脳裏に疑念がよぎる。
彼女は、本当に人間なのだろうか?
馬鹿げた考えだと言うのは分かっていたが、彼女が醸し出す雰囲気は異質そのもの。
その存在自体を疑いたくなる。
人間だとしても、微笑みの裏に何か隠しているのではないか。
もしや、全てお見通しなのではないか。
あれこれ考えつつも、オーティスは事態を進展させるために、見たままの感想を言う。
「ええと・・・ 二十歳、ぐらいですかな?」
「にゃははっ! ありがたいお言葉ですにゃ!」
満足げに笑うと、またスカートの裾をふわりと膨らませて正面を向き、
玄関へと歩き出す。
他愛のない会話のはずなのに、二人は窮地をどうにかやり過ごせたような、
言いようのない危機感でいっぱいだった。
大きな玄関の扉を白い女性は両手で引いて、静かに二人を中へと招く。
一歩足を踏み入れた瞬間、
汚れた革靴の足音がホール中に反響する。
外よりも、ぼんやりと明るい室内に目が慣れる。
「おお・・・ すげえな・・・」
米国の都心部に巨大な高層ビルを構える社長のオーティスですら、
思わず声を上げてしまった。
そこはまるで、オペラ劇場のように巨大な空間だった。
あまりの大きさに、自分の体が縮んだようにさえ感じる。
玄関から奥へと続く濃いワインレッドの絨毯。
落ち着いた、深い赤茶色をした木張りの床板。
広いホールの正面、かなり遠くには大きな踊り場から伸びる二つの階段。
単なる踊り場なのに、民家の二階程の高さがある。
階段同士の間には永遠に続くような長い廊下。
奥の照明を落としているせいか、まるで闇の中へと繋がっているようだ。
ふと、頭上を見上げると、二人の来訪者を睨み付けるように、
巨大で複雑な銀のシャンデリアが下げられている。
数え切れない程の光の粒。恐ろしく高い天井に吊り下げられたその直径は、
優に五メートルもある。
ギロチンのようにそれが落下する妄想に駆られ、
ニルソンが足早にシャンデリアの下を離れようとする。
あまりの豪華さに見入るオーティス。その光の粒が蝋燭ではなく、電球な事に気付く。
壁伝いに点々と設置された、すずらんの花を模したランプのような照明も、
その全てが電気式の新しいものだ。
玄関から入ってすぐの両端、両開きの巨大なドアが遠くに見える。
はるか彼方の長くカーブした階段よりも向こうの壁には、
そこそこ大きなドアが広い間隔を空けて閉ざされている。いくつあるのだろう。
両手の指よりも多いのは確かだ。
「ようこそ。こんな早くに人間とは珍しいね」
踊り場の上から不意に男の声がした。
二人が見上げると、さっきまで誰もいなかったはずの階段から、
静かに降りてくる人影があった。
肩の部分が丸い、広がった袖口で、長い燕尾の六つボタンジャケット。女性用だろうか。
肩幅がなく、所々には赤く輝く糸で、複雑な刺繍が施されている。
腰から膝にかけて膨らんだ、王子のような長いベルボトムのパンツ。
緩やかなウェーブの肩までかかる漆黒の髪。
頭には浅く、つばが広い大きな帽子を被っている。
首から下げたペンダントが鈍い銀色に光る。
恐らく、写真を入れるためのロケットだろう。
背筋を伸ばし、コツコツと足音を響かせて階段を降りる様には、
形容できない、不気味な威圧感があった。
「ご主人様。二人とも、三日もここを迷ってたそうなのでお食事でもと思いまして」
いつの間にか猟師達の脇に立っていた、白い女性が降りてきた彼に事情を話す。
「いい銃だ。獲物は鹿かい? それとも狼?」
男女のどちらともとれる顔立ち。
獣のような鋭く、大きなほんのりと赤い瞳。
一歩ずつ確実に、二人の男に距離を詰めて行く。
意外にも、その身長は先ほどの女性とそう変わらない。
遠くで見れば、威圧感が相まって、恐ろしいほどに大きく見えたのに。
警鐘を鳴らす第六感に支配され、思わずそろりと逃げ腰になるニルソン。
オーティスは恐怖に駆られつつも、内側から湧き上がる欲望に支配される。
―これだけの巨大で豪華な屋敷の主人なら、一体どれ程までに莫大な財力を持っているのだろう?
だとすれば、豪華な食事や高価なアルコール類が出てくるのは間違いない。
口舌巧みに屋敷に一宿でも出来れば、どれだけ高価な調度品を盗みだせるだろうか?
これほどの金持ちなら、使っていない時計の一つや二つ、無くした所で気付く訳がない。
過去にオーティスが他人を蹴落とし、
社長まで上り詰めて成金街道を独走していた時がまさにそうだった。
いいカモが現れた。仕留めなくては。彼は館の男主人なのだろうと仮定して、
恐る恐る猟師達は口を開く。
「え、ええ。実は俺達、ちょっと鳥を捕りに来て、道を間違えてしまったんでさ」
「丸三日、山から出られなくて・・」
「何も食ってねえもんで、少しばかり飯でも頂きたいと思いまして・・ 旦那?」
ゴマをするオーティスに、背筋を不自然に伸ばして固まるニルソン。
緊張する猟師達の眼前に立った黒い主人は彼らを見上げる。
近くで見るとオーティスと同じか、それよりも背が低い。160センチ前後だ。
二人の目をじっと見つめる、その赤い瞳は深く、
まるで底の見えない井戸でも覗きこんでいるようだ。
得体の知れない恐怖と焦慮が猟師達を支配していく。
永遠にも感じるほどに、長い五秒間。
そして、黒い主人は、にやりと笑うと意味深に二度頷く。
「分かった。お二人をダイニングにお連れして。それから・・・」
ダアァァン!
突然のけたたましい銃声。
同時に、オーティスが立っていた背後のランプが粉々に砕け散った。
ダアァァン! ダアァァン! ダアァァン!
大きな玄関ホール中に何度も反響して、大きな銃声がさらに耳を劈くものになる。
猟師達二人の足元に、すぐ近くの壁に、立て続けに弾痕が開く。声にもならない悲鳴。
床板の木片や石壁の破片が粉塵となって飛散し、
扉から差し込む朝日に反射して煌めく。
明らかに二人を狙っての銃撃だ。訳も分からずにパニックになり、逃げ惑う猟師達。
六発、七発と銃声が響き、
彼らは死に物狂いで開いた玄関のドアから飛ぶように逃げてゆく。
それを追いかけるように、踊り場の階段をバタバタと走り降りる影があった。
「殺し屋め! 絶対逃がすものですか!」
二人の猟師達を銃撃したのは、先程彼らに猟銃で撃たれた、あの少女だった。
ふわりと揺れる長い金色の尻尾と、大きな狐の耳。腰まである長く美しい金髪。
華奢な体つき。ベージュの袖なしワンピースの裾を揺らして玄関へと急ぐ。
左の二の腕には真新しい包帯が巻かれ、サンダルで慌ただしく走る動きにあわせて、
包帯の端がなびいている。
その手には小さな彼女の身長と同じ程全長のある、
西部開拓時代のウィンチェスターライフルが握られていた。
絨毯の上で立ち止まり、ロクに狙いも付けずに、
腰だめで銃を構えてさらに発砲し、引き金を覆うレバーを素早く前後させる。
十発目の弾を撃った所で弾切れになり、カチャカチャとレバーを動かして、
空撃ちを繰り返す。
弾切れに気づいた彼女は銃をじっと見つめると、ポケットの中の弾を探しはじめた。
「この人間! 戻ってきなさいよ! 私が仕留めてやるんだから!」
下を向いて、不慣れな様子でポケットから弾を一発ずつ取り出しては銃に込める彼女。
その脇で身動き一つせず、後ろ手に腕を組んで見ていた黒い主人が狐の少女に近寄る。
「あーあ、獲物に逃げられてしまった。仕掛けるのが早すぎたね」
「うるさいわねフェリエッタ! あの人間たちが私を撃ったのよ!
それに気づきもしないで!」
鋭く吊上がった灰色の目を見開いて、
銀色の長いライフルを振り回して激怒する狐の少女。
フェリエッタと呼ばれた黒い主人は人差し指をピンと立てて静かに振り、
“甘いぞ”のジェスチャーをする。
「まぁ、怒らないでリヴァーネ。持ってた銃と見た目ですぐに分かったさ」
「なら何ですぐ撃たなかったの? 銃はあなたの方が上手でしょう?」
清楚そうな見た目とは真逆の態度で、長く鋭い牙を剥いて詰め寄る狐のリヴァーネ。
落ち着けと、両手を扇ぐように動かすフェリエッタ。
「ちょっとした罠を仕掛けてたんだ」
「罠ですって? トラバサミも縄も無いじゃないの!」
「そういうのじゃない。なぁ、ルル?」
そう呼ぶと、リヴァーネの背後にふわりと、音もなく白い女性が現れた。
彼女は被っていたボンネットを取り、白く長い髪をかきあげる。
すると、髪の中からリヴァーネの物とはまた違う、大きな獣の耳が飛び出す。
まるで別の生き物のように動く、白銀色の髪よりも真っ白な猫の耳だ。
「ちょっと朝食に睡眠薬でも盛って、屋敷に閉じ込めて、みんなのお楽しみにしようかと思ってたんですにゃ」
白猫とよく似た姿の白い女性、ルルは当然のように恐ろしい事を言い放つ。
彼らの作戦を台無しにしてしまった事に気づき、少し顔を伏せるリヴァーネ。
そんな彼女を案じたように、フェリエッタは壁に掛けられた、横長の猫の絵に歩み寄る。
「その銃では仕留め難い。いいものをあげよう」
絵を外すと壁にくぼみがあり、その中には古い散弾銃が掛けられていた。
リヴァーネのものと同じようなレバーがあり、
シルエットはよく似ているが全長はずっと短く、
エングレーブと呼ばれる金色の彫刻が丁寧に彫り込まれた黒い銃身は、
倍以上の太さがある。
「M1887ショットガン。五発入る。短くしたからそれより扱いやすい」
「私がチビだって言うの?」
「いや、これには他にも良い所がある」
口を開くたびに文句を言うリヴァーネを尻目に銃の説明を続けるフェリエッタ。
ガシャリとレバーを下ろすと機関部から大きな緑の散弾が飛び出す。
それを空中でキャッチし、つまんで見せる。
「特製の、鉛の代わりに岩塩を入れた弾だ。余程近くでなければ、
撃たれた相手が死ぬ事はほとんど無い」
「やつらは一方的に仲間を殺して回る殺し屋よ? 私は猟師が大っ嫌いなの!
殺さなきゃ意味が無いわよ!」
「そこがポイントさ」
見せた弾を散弾銃に込め直し、
同じ弾が三十発ほど入った革袋をくぼみから取り出すと、
目をパチクリさせるリヴァーネに差し出して囁く。
「抉れた傷に粗塩を思いきりすり込むと、どうなると思う?」
「・・・多分痛いんじゃないかしら。もう私には、とっくに分からないけど」
どこか悲しげに遠い目をしてから、腕に巻いた包帯を見て、リヴァーネはつぶやく。
正解、と、フェリエッタは静かに頷いて微笑む。
「そう、死ぬほど痛い。それはそれは、鉛弾で撃たれて死んだほうがずっとマシなくらいにね。
仲間を奪った人間が嫌いなんだろう? あんな半端な奴らだけすんなり死なせては勿体無い」
リヴァーネは持っていたライフルを足元に置いて、散弾銃を受け取る。
「わざと殺さずに、追いかけて奴らを撃ちながら森の外へ追い出すんだ。
よく利く君の鼻なら、あいつらのキツい臭いを辿って簡単に追いつける」
「森から追い出したその後は?」
「あえて仕留めずに逃がしてやるのさ。そうすれば、君を恐れた奴らは死ぬまで君の悪夢を見続ける。
きっと二度と銃は握れない。そして奴らから君の伝説を聞いて、仇を討とうと別の猟師達が来る」
「そいつらは?」
「一匹残らず、君の獲物だ。やがてここに来たハンターは全員、君の部屋に並ぶ事になる」
「まぁ、素敵じゃない! ワクワクしてきたわ!」
散弾銃をぎゅっと抱きしめ、目を輝かせるリヴァーネ。
笑いながら軽く頷くと、フェリエッタは両手の指をL字にして合わせ、
テレフォンカードほどの大きさの四角形を作る。
「奴らはこの位の大きさのカードを大事に持ってるはずだ。
それをトロフィー代わりにするといい。猟銃やあの赤い帽子も、奴らには過ぎた代物さ」
「カードね! 分かったわ!」
開いたままだった散弾銃のレバーを、ガシャリと戻して発射体勢にし、
リヴァーネは開いた玄関を睨みつける。
「・・・今に見てなさいよ殺し屋! すぐに追いついて、仕留めてやるんだから!」
彼女の両肩をポンと叩き、親指をグッと立てるフェリエッタ。
「良い狩りを」
花束でも抱えるように散弾銃と皮袋を抱きしめながら、
吹き抜けるビル風のようにリヴァーネは森の奥へ走り去った。
彼女の後姿が見えなくなったのを確かめて、大きくため息をつくフェリエッタ。
左後方でじっと二人のやりとりを見つめていた、白猫娘のルルが静かに彼の横へと並ぶ。
「お見事ですにゃ、ご主人様。これで予定に遅れませんし、リヴァーネさんも満足。
あいつらも多分、死ななくて済みますにゃ」
「はは、何事も平和的解決が一番」
「今日に限ってとんだお客様でしたにゃあ。よそ行きの格好をしてて助かりましたにゃ」
「全く、タイミングがいいのか悪いのか。耳と尻尾が痛くなってきた」
「ふふっ、ご主人様はよそ行きに慣れてませんから。似合ってますにゃ、その帽子!」
フェリエッタは被っていたシルクハットをくるりと回しながら脱いで眺める。
同時に、緩いウェーブの髪の中から髪と同じ色をした真っ黒な耳が現れる。
ルルの耳よりも尖った、雄猫の耳だ。
燕尾の間からは蛇のように、毛が短く黒い尻尾が顔を出す。
耳と尻尾をぶるぶると震わせると、彼は猫のように大きく背伸びをした。
ふと、高い天井の隅に目をやると、大きな黒い影が蠢いている。
影には八つの真っ赤な目があった。二メートルはあろうかという巨体だ。
不気味な影から細かい毛の生えた、太く長い八本の脚が伸びる。
その姿はまさにグロテスクな、巨大グモそのものだった。
じっと見たフェリエッタは、背伸びを終えると、当たり前のように影に話しかけた。
「なんだ、エンデューラ。今日はそんな所にいたのか。どの辺から見てた?」
黒い影が蠢き、太い糸を出しながらゆっくりとフェリエッタの前に下りてくる。
シャンデリアの光が当る。赤茶色と黒が混じった、タランチュラのようなクモの脚。
つらつらと糸を出す、赤黒く丸いクモの腹部を隠すような長いドレスの裾。
そして、通常のクモであれば頭胸部があるはずの場所には、
腰から上、人間の上半身があった。
巨大でグロテスクなクモの下半身とは正反対の、
グラマーだがどこか子供っぽい雰囲気のある女性の体。
神話では下半身が馬の弓使い、ケンタウロスが有名だが、
それのクモ版と言ったところか。
貴族のようなロココ調の、赤茶色の刺繍が一面に施された豪華なドレス。
通常は中に骨組みを入れなければ綺麗に膨らまないが、
巨大なクモの胴体がその代わりになっている。
大きなフリルの付いた長袖が目立つ両手には、
針のような細い編み棒と編みかけの布が握られていた。
「昨日の晩からここにいたわよ。誰も気づかなかったけど」
ボトリと独特な音を立てて、クモのエンデューラはフェリエッタの前に着地する。
かなりボリュームのある、赤茶色の髪。耳の前で三つ編みのお下げにしてある。
長い前髪で隠れ気味の、
常に睨みつけるような、目つきの悪い瞳には丸いメガネをかけている。
「猫の二人で町へ買い物に出るんでしょう? ちょっと買ってきて欲しいものがあって・・・」
ごそごそと巨大な下半身を揺らして体のあちこちを手で探る。
目的の物を見つけ、一番前の右足に巻いたリボンから銀色の編み棒を取り出し、
フェリエッタの脇に立っていた、ルルに放り投げて渡す。
「これと同じ編み棒がもう八本必要なの。大きなドレス作るには足りなくて」
「いつもの手芸店ですにゃ? なにか他に足りないものはありますかにゃ?」
「それだけでいいわ。ありがと。 ・・・本当なら私が行けば一番だけどね」
わざとクモの脚を主張するようにバタバタと八本脚を動かし、
悪戯な顔をするエンデューラ。
とびきりの自虐ジョークに思わずくすくすと笑い出すルル。
「にゃふふっ、ボディが魅力的すぎて町の男がみんな気絶しますにゃ!」
「うふふ、もっとセクシーなドレスでも編もうかしら?」
ドレスの裾を揺らして、和気あいあいと談笑する二人。
その時、どこからか足音が聞こえてきた。
ドタドタとすきまじい勢いで、
かなり離れた階段脇のドアの向こうから乱暴な足音が迫る。
「わ・・ 私はちょっと失礼するわ・・・!」
急に青ざめて、急いで丸い胴体から垂らした糸を巻き上げ、
また光の当らない天井の隅に隠れるエンデューラ。
嫌な予感に顔を見合わせるフェリエッタとルル。
そして、ドアが大きな音を立てて弾けるように開いた。
「おカいもノに行くのね!」
奇妙なアクセントで叫ぶ、青いエプロンドレスを着た裸足の少女が現れた。
肩が丸く膨らんだ半袖ドレスの裾は解れてボロボロになり、
ロングだったスカートの丈は破れてミニ丈になっている。胸元には大きな赤いリボン。
それよりさらに大きな腰ののリボンの下には、
少女に不釣合な鋼鉄のチェーンをぐるぐると巻きつけている。
チェーンの両端には鉄製ワイヤーのカゴがぶら下げられ、
中には溢れるほどのお菓子が詰め込まれていた。
健康的な体型と元気いっぱいの動きとは逆に、
白い肌にはどこか生気がなく、まるで死人のようだ。
ふさふさの腰まである髪は、寝癖がそのままなのかめちゃくちゃに乱れている。
「おはようアリス、今日はいつもより早起きだね」
フェリエッタが和やかに話しかけるが、彼女の様子は明らかに普通ではない。
顔の左半分は青く大きな瞳、金髪に大きな赤いリボンを付けた、
何の変哲のない、可憐な、女の子らしいもの。
しかし顔の右半分の頬から額の中央にかけて、
強引に補修したぬいぐるみのように、大きな縫い跡があった。
右のツギハギ部分はまるで墓から掘り出した死体のような土気色で、
零れんばかりに見開いた、赤一色の右目はぐるぐると渦を巻いて焦点が定まっていない。
右半分の髪はパサパサの茶色で、健康的な金髪の左半分とは明らかに別物だ。
さらにツギハギ側には左側のリボンの代わりに、
死んだ色をした黒いウサギの耳が生えていた。
「フェリエッタにイさま! ワタシもオかいモノにつれてって!」
狂犬のように舌を出し、
気が触れたようにケタケタと笑いながら、ツギハギ兎のアリスが二人に迫る。
もしも彼女を町へ連れて行きなどしたら、トラブルどころではすまない。
簡単に了承してしまいそうなフェリエッタを抑え、ルルは少し困ったように笑顔を作って、
彼女に歩み寄り話しかける。
「今回はちょっと車が満杯になりそうで・・・ 何か欲しい物があれば買ってきますにゃ」
「ほんトに! じゃあチょっとまって!」
息を荒げて、アリスは腰に下げた大きな鉄製のカゴを乱暴に探る。
中から潰れてシワだらけになった、お菓子の空箱を取り出すとルルに突き出す。
「これ! これが食べたいの!」
「チョコレートキャラメルですかにゃ? ふふ、ダースで買ってきてあげますにゃ!」
「ダースってナニ?」
「十二個の事ですにゃ。これをもう十二個」
「イヒャヒャヒャッ! ジュウにコも! うれシいわ! ありがとルルねえさま! ゼッタイよ! やくそくよ!」
アリスは強引にルルの右手を握り、物凄い怪力で指きりげんまんをする。
華奢な腕を満足するまで振り回すと、
アリスはスキップをしながら鼻歌まじりに入ってきたドアに戻っていった。
相当痛かったのか、腕をぶらぶら振って一息つくルル。
朝から散々屋敷の住人に振り回された二匹の猫は、
買い物に出る前からもう疲れている。
「あ、ご主人様。早く出ないとレストランが混む時間になりますにゃ」
「何とまあ。人間達は随分と昼ご飯を焦るんだな」
玄関の扉の向こう、森の彼方から乾いた銃声が響く。
恐らくリヴァーネが猟師達を追い詰めたのだろう。
フェリエッタはシルクハットを、ルルはボンネットをそれぞれ被り直すと、
屋敷の扉をくぐり、車庫に停められた大きなワーゲンバスに乗り込んだ。
現在の時刻は朝六時。
延々と続く木を伐採しただけの荒れた山道を数時間走り続けて、
悪夢の森を通り抜け、やっと現世に着くのは六時間後の十二時だ。
バスを運転するのは乗りなれている白猫のルル。
黒猫フェリエッタは助手席に座る。既にかなり眠そうだ。
そして、二匹の猫はレストランと昼食メニューを相談しながら、
深い森の奥の屋敷を出発した。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
霧が晴れ、辺りを覆っていた夜の闇はひとかけらも残さず、日の光に溶けて消える。
木々が生い茂る深い樹海の中、
迷路のようにつけられた未舗装の細い道を、レトロなワーゲンバスは走り続ける。
黒い土一色。地面を覆う草と、
木が生えていないだけの手作りの道路には看板の一つもなく、
辿る者を迷わせる為に複雑に枝分かれしている。
知る者以外を拒絶し、不幸へと導く為の道だ。
「たらららららん♪ らんらん♪ らららん♪ らららん♪」
運転席の窓から片手を出して、ハンドルを握るルルは、
カーラジオから流れるピアノジャズの音色を口で真似ている。
ダッシュボードに強引に取り付けられた、
小さな置時計の針は十時ちょうどを指していた。
この小型バス一台がやっと通れるほどの道でかなりのスピードを出し、
迷うことなく正解の道を辿るルルの隣で、
フェリエッタは帽子を膝の上において黒い耳をぴくぴくと動かし、爆睡している。
悪路に合わせ、不規則に振動を続けるシートと、歌声でかなり寝心地が悪そうだ。
開けた窓から吹き込む、爽やかな緑の風が二人の髪を揺らす。
「穢れた刃と〜♪ 不確かな君のジャ・ス・ティ・ス♪ にゃんにゃにゃ〜♪」
寝ているフェリエッタを全く意に介さず、ルルはピアノを弾くように指を動かして熱唱中だ。
歌詞だけでなく、
バックコーラスや楽器の音色まで口で真似ようとするが、かなりあやふやである。
曲が終わり、音楽番組の司会者がコメントを始めると、
ルルはラジオのダイアルを回して音量を下げた。
やっと樹海を抜け、まだ未舗装だがなだらかな人間の手で作られた広い道に入る。
妨害していた二つの要素が無くなり、安らいだ顔で深い眠りに落ちようとするフェリエッタ。
「ご主人様、ご主人様、起きて下さいにゃ」
わざと小型バスを蛇行させ、車体を大きく左右に揺らす。
ドアに頭をぶつけてフェリエッタが目を覚ます。
「んん、ルル。もう町に着いたのかい?」
「いいえ、もう二時間ほど先ですにゃ」
「ならもう少し寝かせてくれないか。早起きしたから眠くて仕方がない」
「にゃふふ、ここから先は油断が出来ない世界なのですにゃ」
片手でハンドルを握りながら、
ルルはフェリエッタの膝からつば広の帽子を拾い、彼の頭に被せて耳を隠す。
「人間達にバレてはいけません。耳と尻尾は常に意識して隠して下さい」
「窮屈だね。全く、人間は没個性な生き物だ」
「これでも、人間達から見れば、私達はかなり浮いて見えるらしいですにゃ」
「人間同士はどうやって相手を識別しているんだろう。匂いかな?」
談笑する二人。小型バスはアスファルトで舗装された道に入った。
道の大きさはさらに広くなり、車三台が並べる幅の二車線道路になる。
後ろ向きの看板が道幅に立っている。フェリエッタが振り返って見ると、
『この先、道路なし』の警告表示が大きな文字で書いてある。
さらに進むと、左右の道路脇には大きめの民家がまばらに建っていた。
それぞれの家の玄関先には新聞を読む男性や、庭で遊ぶ子供の姿もある。
フェリエッタはルルに起こされた理由を肌で知り、シルクハットをしっかりと被り直す。
「ご主人様、ちょっと寄り道してもよろしいですかにゃ?」
「寄り道? 構わないけど、近くに誰か知り合いでも?」
「まあ、そんな所ですにゃ」
小型バスは揺れながら、道路から真っ直ぐに伸びる古い石橋を通過する。
橋下には両岸が美しい緑で覆われた、かなり大きく綺麗な川が流れる。
さらに山沿いに作られた道をぐるぐると下り、先程見えた川岸の道路へと出る。
暫く川沿いに進むと、一軒の古びたログハウスが見えてきた。
いかにも手作りといった風情で、川の上にせり出したベランダには何本もの釣竿。
その脇の桟橋にはかなり古い、複座の水上複葉機がロープで係留されている。
薄緑と薄茶色でペイントされた軍用機風の機体。翼と胴体に塗られた、
外側から青、白、赤の大きな円形マークが目立つ。
その特徴的な色彩は、第二次世界大戦中の英国軍の軍用機とよく似ていた。
ログハウスの玄関にバスを停める。
その玄関先には焚き火を炊きながら椅子に腰掛けて分厚い本を読みつつ、
手作りの木製テーブルに置いた紅茶を静かに飲む老人が座っていた。
「こんにちは、ラルフ御爺さま」
車を降りて老人に歩み寄り、ルルは親しげに挨拶をする。
気づいた老人は老眼鏡を外して本をテーブルに置くと、杖をついて立ち上がる。
年季の入った革製のジャケットには、いくつもの錆付いたバッジが付いている。
「おお、ミス・ホワイトハートさんじゃあないか」
「にゃふふ、ルルでいいですよ」
「こりゃあ失礼、ミス・ルル・ホワイトハートさん。最後に会ったのはいつだったか・・・」
「二週間前です」
「ほっほ、もうそんなに経っていたか。年を取ると時間が早くてかなわん」
助手席から二人の様子に聞き耳を立てるフェリエッタに、
年老いたラルフはすぐに気がついた。
「んん? 助手席の方は見たことが無いような、覚えていないような・・・」
「私のご主・・ いえ、婚約者ですにゃ!」
「なんと! ルルさんにフィアンセがいたとは、こりゃあ驚いた」
耳の良いフェリエッタは思わず軽く吹き出して、バスを降りて二人に歩み寄る。
話を聞かれた事に気がついたルルは口に手を当てて、思わず黙り込む。
「初めまして。婚約者のフェリエッタ・シルバーヴィーンです。随分ルルと仲がよろしいようで」
「おお! こちらこそ。元、英国空軍大尉のラルフ・スコットですだ」
「やはりそうでしたか。通りで素晴らしい勲章をいくつもお持ちになられて」
「いやいや。こんな物は時が来れば、輝きをなくして錆びだらけになる。それよりも・・・」
老人は年季の入った薄茶色のズボンを引き上げて左足を見せる。
痩せて、骨格が肌の上から見て取れる、老いた足。
その膝から下は、無機質で、所々に錆びか浮いた、古い義足だった。
「大戦中の最後の夏に、機関砲で乗ってた機体を間近で撃たれましてなあ、その時に運悪く」
「軍人の誇り。名誉の負傷です」
「おお! その通り! いやいや、最近の連中からはその言葉をめっきり聞かなくなってねえ。
この足を見せただけでまるで怪物か腫れ物扱いで。いやいや、ありがたい」
ラルフはいたく感動した様子でフェリエッタの手を強く握り、握手する。
脇ではルルが時間を気にして懐中時計を眺めている。ラルフの話は長いのだ。
「あの、ラルフ御爺さま。これから私達買い物へ行くんですけど、何か足りないものはありますか?」
「いつもの店に宅配を頼んだから今日は心配ないですな。
今日は随分と来るのが遅いがねえ。もう一杯入れて気長に待つとするよ」
「また足りないものがあったら、なんなりとお申し付け下さい」
お元気で、とバスに戻り手を振るルル。
助手席の扉を開けたフェリエッタはくるりと振り返り、
両足を揃え、背筋を伸ばして敬礼をする。
ラルフも曲がった腰を精一杯伸ばして敬礼を返す。
ログハウスを後にしまた町に向け走り出したの車で、
先程の言葉がどこか気になるフェリエッタはルルの真意を探ろうとする。
「婚約者、か。なかなか悪くない響きだね」
ルルは両耳をピンと立て、ハッとした様子でちらりとフェリエッタを見る。
すぐに青い瞳をずらすと、
いつも冷静な彼女にしては珍しく、ほんのりと焦りを顔に出す。
「ただの出任せですにゃ」
「そうかな?」
「ほら、私は昔の名残りでご主人様と呼びますけども、
ご主人様は主従関係と言う物がお嫌いでしょう?
その、そういう上下だけの関係だと、誤解されたくなかったと言いますか・・・」
「もっと感情的な関係?」
「その、そうじゃなくて・・・ ああもう! 深い意味はございませんにゃ!」
「悪い悪い。私も最近、ちょっと同じような事を考えてたんでね」
フェリエッタの意外な言葉に、ルルは少し驚いた様子で何か考え込む。
「・・・申し訳ありませんにゃ。私も普通にフェリエッタと呼べればいいのですけど、
どうしても最初に覚えた呼び方が抜けなくて」
「気にしなくていいさ。呼びやすい名前で呼べば良い。フェルでもキッテンでも。
そうだ、『ブラッキー・ザ・サーティーンフライデー』とかどうかな? 少し長い?」
フェリエッタは少し暗い雰囲気になりかけていたルルにジョークを放つ。
曇りはじめて目を伏せていたルルの顔は、陽が射した様に明るくなった。
「ふふ、にゃはははっ。まるでただの猫みたいな名前ですにゃ!」
「失敬な。私は二本足で歩くただの猫だぞ」
「にゃはは、そうだ、『短銃を差した猫』とかどうですかにゃ?」
「童話のタイトルそのままで、逆にややこしくないか」
「じゃあ別の言葉で通訳してみては? 例えばフランス語で、シャトー・・・」
「『ル・シャ・ド・ドゥ・ピストレ』 ふふん、中々聞こえがいい」
「ドイツ語だと?」
「『カッツェン・ミト・ゲウィアグン』 どうも響きが硬い」
「本当に通じるのですかにゃ? それ」
「辞書で覚えた単語のツギハギさ。そのうち、ネイティブスピーカーに通じるかどうか
試してみたいものだね」
他愛もない話を続ける二人の遥か先、
フロントガラス越しの彼方にベージュの車が見えた。
このバスよりも少し小振りな古いバンだ。路肩に停車している。
そのすぐ後ろには黒光りする、新車同然の大型セダンが乱暴に停められていた。
「あら、何でしょうにゃ」
「様子がおかしいな」
百二十キロから四十キロまで少しずつ減速して、警戒しながら接近する。
丸いライトのレトロなバンには親しげな絵と共に、青い字で社名が塗装されている。
食品、日用品、何でもお届け致しますとの宣伝文句も続けて書かれている。
恐らく先程ラルフが言っていた宅配を頼んだ店のバンだろう。
その後ろ、道を遮るように斜めに駐車している、平たく黒いセダンはいかにも高級車だ。
甲虫のように光る、やたらと大きな黒の車体。
前部のバンパーやサイドミラーは金色に輝いている。
白い帽子にベージュの作業服。
まだどこかあどけない、素朴な雰囲気の青年。配送バンの運転手だ。
セダンとバンの間で、青年よりも頭一つほど背が高い三人の男達と激しく口論している。
口論の相手の三人は、
派手なスーツに金の時計や指輪でギラギラと飾りつけた、所謂チンピラだ。
気圧されつつも気丈に口論を続ける青年を嘲笑うように、
三人は猫背で見下しながら睨みつけている。
「あの車は確か、ラルフお爺様の言ってた店の車ですにゃ」
「もう一台は随分ムダに高そうだ」
バスと彼らの距離が次第に詰まっていったその時、
赤いジャケットを羽織ったリーゼントの男がバンの青年を殴り倒した。
続いてスキンヘッドの男が倒れた彼の髪を掴んで強引に立たせると、
空いた片手で青年の腹部を殴りつける。
倒れ込みもがく青年を、指差して笑い転げる二人のチンピラ。
さらに二人は青年を足蹴にして追い討ちを加える。
その少し後ろでは白いスーツのサングラスの男が、
葉巻をふかして黒いセダンにもたれかかり、腕を組んでにやけている。
ゴキリ。
フェリエッタが目を閉じて首を鳴らす。ゆっくり開いた瞼の下、
濃いワイン色の瞳から殺気が溢れる。
「気に食わんね」
急ブレーキをかけて、ルルは暴行現場のすぐ横にバスを停めるとフェリエッタを制した。
「ああ、あれはご主人様がお嫌いな生き物ですにゃあ」
「昔から生理的に受け付けないんだ。ちょっといいかな?」
「弾の無駄ですにゃ。割に合いません。ここは少し、私にお任せ下さいにゃ」
「折角のよそ行きのドレスだ。汚さないようにね」
ルルは運転席から飛び降りてドアを閉めると、
サイドミラーに向かって表情の練習をする。
そしてチンピラ達に向かってスタスタと歩き出すと、
振り返り、フェリエッタに向かってウィンクした。
「・・・一体今日はどんな役どころで始めるのか」
フェリエッタは小型バスの後部、座席を外した広い荷室の大きなドアを開くと、
まるで劇でも見るようにゆったりと足を組んで荷室の縁に腰掛けた。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
「そろそろ謝る気になったかい? エェ? 坊や?」
赤いジャケットを羽織り、リーゼントを揺らす銜えタバコの男が、
口を曲げて倒れた青年を見下す。
青年はよろめきながら立ち上がり、唇から出た血を拭うと三人の男達を睨みつけた。
「ふざけるな! 後ろから車をぶつけたのはお前達だろ!」
リーゼントの男は隣に居たスキンヘッドの男と目を合わせ、顎で合図をする。
茶色のスーツ。鼻には大きなリング状のピアスを付けている。
スキンヘッドの男は青年の顔を握り拳で殴りつけると、胸ぐらを掴み上げる。
「黙らねぇか躾の悪いガキが! ぶつけた車の落とし前を付けろと言ってんだよ!」
「だっ、誰が謝るものか! 悪いのはお前達だ! こんな事をして許される訳が・・・」
「殺すぞ、この野郎!」
スキンヘッドの男が握り拳を振り上げた瞬間、
黒いセダンで葉巻をふかしていた大きなサングラスの男がわざとらしく立ち上がり、
鼻から葉巻の煙を吐きながら二人の手下を窘めた。
「まあまあ、そのくらいにしておいてやれ。殺したらマズいだろう」
手下達は白いスーツのボスに従い、青年を放す。
その瞬間、油断したスキンヘッドの男の顔面に青年がパンチを入れた。
よろよろと数歩後ずさりするも、顔を真っ赤にした男はすぐに青年を殴り倒す。
「全くこのクソガキめ、いい気になりやがって!」
「躾が必要だな」
リーゼントの男とスキンヘッドの男は青年の腕と髪を掴んで、
葉巻のボスの前に引きずり出す。
そして、ボスは咥えていた葉巻を手に持つと、そのまま葉巻の火を青年の頬に―
「お兄様をいじめないでーっ!」
突然背後から、割れんばかりの少女の声が響く。
チンピラ達が振り返ると、そこには今にも泣き出しそうな顔で拳を握り締め、
恐怖に震えながらも懸命に立ち向かおうとする、白い髪の少女の姿があった。
「おーおー、妹チャンのお出ましかい? 兄弟愛とは泣かせるねェ!」
肩で風を切りながらにやけたリーゼントの男が近付く。
少女は身を縮めて震えながら、上目遣いに男の目を見つめて叫ぶ。
「お兄様は悪くないわっ! もうやめてっ!」
スキンヘッドの大男に捕まっている青年は状況が理解できずに唖然としている。
隣に立っていたボスが、葉巻を咥え直して少女に歩み寄る。
「そうは言うがねお嬢ちゃん、コイツがオレの車にぶつかってきた事実はどうにもならんなぁ」
「そんな事言わないで、どうかお兄様をお許し下さい!」
「・・・体で弁償すると言うなら、見逃してやらんでもないなぁ?」
グヘヘ、と醜悪な笑いを浮かべるチンピラ達。今にも泣きそうな顔で目を伏せる少女。
血だらけの青年の顔をちらりと見ると、
少女は覚悟を決めたように頭を振った。白銀色の髪がさらさらと輝く。
「そ・・ それで・・・ お兄様をお許し頂けるのですね?」
「ああ、約束するぜ?」
リーゼントの男は自分よりも頭二つも小さな少女の前に立つと、
煙草を手に持ち、肺に残った煙を長い髪に吹きかける。
「うへへ・・・ いい匂いするぜこのガキ」
下品に口を曲げて笑う男。それをにやけながら、
食い入るように見つめる二人のチンピラ。
泣きそうな目を伏せ、俯いてじっとこらえる少女。
小さな肩と、白銀色の髪が細かく震える。
「おいおいおい、本当に許して欲しいんなら、自分から誠意を見せろよ? な?」
「そっ、そんな事・・・」
「誠意ナシだぜ! おい! そいつをもう一発殴れ!」
少女に詰め寄るリーゼントの男が、スキンヘッドの男へ、
青年を殴るように声を張り上げる。
スキンヘッドの男は頷くと、青年の肩を掴んだまま、拳をわざとらしく振り上げる。
「やめてっ! やめて下さいっ! 言う通りにしますから、どうか許して下さいっ!」
「おうおう! それでいいんだよ、それで!
分かったらとっととそれを引っ張り上げな!」
少女は顔を真っ赤にして、目に涙をためて震えながら、
静かに長いスカートの裾を掴んで、か細く、震える手で上へとたくし上げる。
白い靴下を履いた、少女の華奢な脛が見える。
待ちきれなくなったリーゼントの男は少女の胸元に手を伸ばす。そして―
ドスッ。
スキンヘッドの男も葉巻のボスも、血まみれの青年も、リーゼントの男でさえも。
何が起こったのか理解出来なかった。
強い衝撃を受けた下半身を、リーゼントの男は恐る恐る見つめる。
彼の下半身には、少女の爪先が数センチ食い込んでいた。
彼女が男の股間を思いきり蹴り上げたのだ。
少女がスカートをたくし上げたのは、
彼に誠意を見せる為ではなく、彼の穢れた欲望に正義を叩き込む為だった。
「ぐ・・ ぐおおっ・・・」
内臓をえぐられるような痛みに、
力ない呻き声を上げて、内股になり、股間を押さえて悶える男。
さらに少女は男が持っていた煙草を掴み取り、
リーゼントを掴んで思いきり頭を反らせると、
男の鼻の穴に火の付いたタバコを根元までねじ込み、
さらに男の鼻に凄まじい掌打を打ち込んだ。
少女は顔を伏せたまま手の平を伸ばしきり、男の鼻を完全に叩き潰す。
肉の焼ける音と、歪に砕ける骨の音。
その動きはあまりにも滑らかで、素早く、まるでミシンが針を通すような正確さだった。
「はふひぎぃやああぁぁっ!」
火種の先が入ったままの鼻の骨を砕かれ、
この世のものとは思えない悲鳴を上げて倒れ込む男。
鼻から灰の混じった黒い血を噴き出し、
のた打ち回る彼をさらに踏みつけて、少女はふふんと満足げに、小さな鼻を鳴らした。
吹き抜ける風になびく黒いドレスの裾とフリル。
上品な平底のおでこ靴の下でもがく、鼻を潰された哀れな男。
身の毛もよだつ手段で打ちのめされたリーゼントの男を見て、
後退りする二人のチンピラ。
少女の青く鋭い双眸が、ギロリと青年を掴んでいるスキンヘッドの大男を睨む。
ほんの数秒前までの、羞恥に顔を真っ赤にして、
泣きべそをかいていた面影はどこにもなく、
静かなその表情には狂気にも似たものが浮かび上がる。
その豹変ぶりに大男は思わず、恐怖で青年から手を離す。
「にゃふふっ、演技はおしまい。次はあなたの番ですにゃ」
幼げな顔立ちに華奢で背の低い、
か弱い少女だと信じきっていた大の男達は完全に度肝を抜かれる。
少女、いや、ルルは殺気を宿した顔で、
男を睨みつけたまま口元だけでにやりと笑い、鋭く光る獣の牙を口元に覗かせる。
ひらりと男に向けて手を差し出し、手の平を返してゆっくりと手招きする。
小首を傾げ、完全に彼を見下した態度だ。
腰を抜かしそうなスキンヘッドの男は低く構え、
スーツのポケットからバタフライナイフを取り出す。
パタパタと慣れた手つきでナイフを羽ばたかせて刃を出し、
両手で構えると、ルルに向かって一直線に走り出した。
「おらぁブッ殺してやるこのメスガキがあぁぁぁ!」
己の恐怖をかき消そうと雄叫びを上げてナイフを突き出し、
足を大きく踏み鳴らして突進する大男。
ルルは冷静に足下の男が着ていた、真っ赤なジャケットを強引に引き剥がすと、
ジャケットでひらりと目眩ましをして、スキンヘッドの男の反対方向、
黒いセダンの横に移動した。
一瞬、かわされた事を理解できず、手品のように移動したルルを見て、
目を丸くするスキンヘッドの男。
「スペインの闘牛をご存知ですかにゃ?」
顔を真っ赤にしてナイフを構える男の鼻にある、
まるで牛の鼻輪のようなピアスを指差してルルが言う。
「闘牛士が怒り狂う牡牛を赤いマントでかわして、疲れさせるのですにゃ」
「黙れメスガキ! 知らねぇ訳がねえだろ!」
「じゃあ、闘牛のフィナーレはご存知ですかにゃ? マァモミーロ・セニョリータ?」
「黙れっつってるだろうがあぁぁぁ!」
マァモミーロとは、スペインの闘牛用語で『腰抜け牛』、
セニョリータは知られている通り、『お嬢ちゃん』の意味だ。
ひらひらと赤いジャケットを揺らし、フラメンコのステップを真似て挑発するルル。
鬼の形相で突進する男。ルルは素早く背後にある、
セダンの後部座席のドアを開け放ち、その前に立つ。
男のナイフが胸に突き刺さろうとした瞬間、
赤いジャケットを男の腕にぐるりと巻きつけてナイフを叩き落とす。
ルルは男の軌道上から抜けるよう、
くるりと半回転して移動し、その勢いで体重をかけて踏み込もうとしていた、
男の強靭な足首に回転足払いをかける。
男の顔を見返りながらにやりと笑う。遠心力で白銀の髪がふわりと煌く。
男は大きくバランスを崩し、
一瞬地から両足が離れ前のめりになる。ルルはすぐ脇を飛び行く空中の彼の背中へ、
すかさず真上から振り下ろすように肘打ちを叩き込む。
鬼のように厳つい顔が、欠伸をするロバのように間抜けな顔になる。
男は慣性でセダンの車内、革の座席の上へ突っ込み、
反対側のドアの内側に大きな音を立てて、毛髪のない頭をぶつけた。
慌てて車から出ようとするが、軽い脳震盪と、
腕にきつく巻きついたジャケットで思うように動けない。
高級セダンの開いたドアからはみ出し、ジタバタと滑稽にもがく屈強な大男の下半身。
ルルはその足元に落ちたバタフライナイフを拾い上げ、
プロペラのように、指で器用にナイフを回転させながら男に囁く。
「ふふっ。疲れ果てて動けなくなった牛の脊髄に、
闘牛士が短剣を突き立て、一撃で殺すのですにゃ」
「やっ、やめろ! 悪かった! 頼む! 止めろオォォォ!」
ザクッ。
ルルは男の背中ではなく、彼の太股の上、分厚い右の尻の肉に、
逆手に握ったナイフを根元まで突き刺した。
彼が走り出した時、利き足を見抜いていたのだ。
さらに刺さったナイフを抉るようにぐるりと回して傷口を大きく広げる。
声にもならない絶叫。噴き出す鮮血。
黒いセダンが暴れる牛男に合わせてグラグラと揺れる。
いくら屈強な大男でも、利き足の根元をナイフで抉られてしまっては、
もはや得意の突進技を使う事は出来ない。
ルルはまるで書斎の本でも片付けたように、軽く手を叩くようにしてホコリを払う。
僅か数秒の出来事。離れて見ていたチンピラのボスは驚きのあまり、
咥えていた葉巻をポロリと地面に落とす。
「ち、畜生ッ! ガキが舐めやがって!」
ルルの目の前にあったサイドミラーに、
ベルトに挟みこんだ銀色の銃を抜こうとするボスの姿が映り込んだ。
とっさに肘打ちで黒に金縁の高価なサイドミラーを壊し、力ずくでもぎ取ると、
焦り、もたついて銃を構えようとするボスの顔面に思いきり放り投げる。
ガシャアアン!
高速回転して飛翔するサイドミラーは、顔の前に突き出した銃に命中した。
鏡の部分と銃口が激しく衝突し、
砕けた鏡と弾き飛ばされた銀の銃が日の光で煌きながら飛び散る。
鏡の破片が指と手の甲にびっしりと突き刺さり、激痛に叫び声をあげるボス。
手を離れ、虚空を舞い、軽い音を立ててアスファルトに転がった銃を拾い上げるのは、
勿論ルルである。
銀に輝くステンレス製の本体。ホワイトパールのグリップ。
意味もなく高価な部品が付けられている。
一般的に広く知られた形体の、リボルバーと呼ばれる六連発の回転式拳銃。
蓮根状の弾倉、シリンダーのある物だ。
M19のステンレスモデル、M66。本体に対して短めの、四インチ銃身。
その全長は24センチ程だが、強力なマグナム弾も撃てる。
それを握りこんだ右手をピンと伸ばして、
片手でボスに銃口を突きつけてスタスタと早足で近寄る。
サングラスで隠れた顔は怯えきった様子で、
血まみれの両手を震えさせながら上に挙げる。
「た・・ 頼む! 俺達が悪かった! ど、どうか命だけは・・・!」
「何の罪もない人を殴りつけて、心と体を傷付けましたにゃ」
「か・・ 金なら幾らでもやる! 頼む! 頼むよ!」
「最初から許すつもりはありませんにゃ」
ルルは手の中で銃をくるりと反転させ、銃身を握り金槌のように持つと、
銃のグリップを思いきりボスの眉間に振り下ろした。
大きなサングラスが中央から真っ二つに割れる。
舞台の幕が開くように、左右に飛び散る黒のサングラス。
そこに露になった素顔は威厳の欠片もない、怯えた弱い犬のような垂れ目のブ男だった。
鼻先を鉄の塊で強烈に打たれ、そのまま仰向けに倒れ、
全身をアスファルトに強打し、呻き声をあげて身もだえする。
ルルはすかさずボスの胸を足で踏みつけ、見下ろして片手で銃を再度反転させ、
ぴたりと頭に向ける。
「問題です。確か、この銃はマグナムですにゃ。この距離で頭を撃ったら、
一体どうなりますかにゃ?」
「ひ、ヒイィィッ!」
「映画みたいに、額に穴が開くだけですかにゃあ?
それとも、熟れたトマトみたいに、グチャグチャに弾けるのですかにゃあ?」
カチリ。
ルルが銃の撃鉄を起こす。三日月形に裂けたような口元の笑み。
噛み合わせた白い歯に、鋭く長い二本の牙。
心底楽しそうなその声と笑みとは裏腹に、大きく見開いた青い目には、
怒りも、愉しみの感情もない。
彼女は彼の頭を吹き飛ばすなど、トマトソースを作る程度にも感じていない。
間違いなく殺される。ボスの理性が恐怖でグチャグチャに掻き乱される。
「助けてくれえぇぇっ! 頼む! お願いだ! 許してくれぇぇ!」
「にゃふふっ、気になりますにゃあ! ものは試しですにゃ!」
「いっ、いやだぁぁぁっ! 死にたくないぃぃっ!」
ズドン! ドンドンッ! ドンドンドンッ!
続けざまに六発の銃声が響いた。硝煙と、砕けたアスファルトの粉塵が辺りを覆う。
「う、う・・・」
力ない声と共に、ゆっくりと目を開く。ボスは生きていた。
ボスの頭の周りを囲むように、六つの弾痕が点々と開いている。
放心し、もはや悲鳴の一つも上げる事が出来ない、ボスと呼ばれた男。
「・・・正解は、額に穴が開き、頭の後ろがグチャグチャに弾けるのですにゃ。
ふふ、いい勉強になりましたにゃあ?」
パチン。ルルはいつでも殺せたと言うように、満面の笑みで弾切れの銃を、
彼の頭に向けて空撃ちする。ビクリと威厳を失った男が怯えて痙攣する。
蓮根のような銃のシリンダーを開き、その中央にある排莢用の棒、
イジェクターロッドを押して、男の顔に発射の熱で焼けた空薬莢をバラバラと落とす。
「あっ、あぢっ!」
顔を火傷し、正気を取り戻した男は短く叫び、
癇癪を起こしたように血塗れの手で薬莢を必死に払い落とす。
男を踏みつける足をどけ、銃のシリンダーを戻して、男の腹の上に用済みの銃を落とす。
そして、目を覆いたくなるような方法で完膚無きまでに叩きのめされた三人に向かい、
スカートの裾をつまみ上げて丁寧に、深々とお辞儀をした。一呼吸おいて踵を返すと、
バスで待つフェリエッタの横へと逃げていた青年に向かい、
ゆっくりと背筋を伸ばして歩き出す。
その時、血だらけのリーゼントの男は手鼻をかむ要領で、
息も絶え絶えに固まった血と潰れた煙草を鼻から出して立ち上がった。
尻に自慢のナイフを突き立てられたスキンヘッドの男も、
痛みに顔を歪めながら尻の血塗れたナイフを引き抜く。
どうにか立ち上がる二人を見たボスは、
ルルの後姿を何度も指差して狂ったように声を張り上げた。
「早く撃てえぇぇっ! 殺せぇ! 今すぐあのアバズレを撃ち殺せえェェッ!」
思い出したように、同時に腰へ手を当てる二人の手下。
しかし、そこにあるはずの拳銃はどちらの腰にも無く、手は虚空を掴むばかり。
死に物狂いで焦り、体中に手を当てて探り、銃のありかを探す。
その時、くるりとルルが振り返った。
「お探しの物は、これですかにゃあ?」
彼女の右手には、38口径の小型リボルバー、M36。
左手には大型の9ミリ自動拳銃、ベレッタM92。
戦闘で二人に接近した際にそれぞれの銃を盗み、コルセットの下に隠していたのだ。
ビクリと体を痙攣させて同時に両手を挙げる三人。
ほぼ同じ大きさの二つの銃口が彼らを睨みつける。
「にゃふふふっ。死にたくなければ、今すぐお帰り下さいにゃ。さあ!」
瞬間、ルルは両手の銃を突き出すと、三人に向けてめちゃくちゃに乱射を始めた。
宙へ抜ける軽い銃声と、独特な重みのある銃声が立て続けに響く。
装填された銃弾は合計20発。
二秒に一発のペースで、男達のすぐ足元を狙い、交互に銃を突き出して発砲する。
絶叫しながら、まるでダンスを踊るようにして我先にと運転席に飛び込み、
サイドブレーキがかかったままの車を出そうとアクセルを踏み込むリーゼントの男。
両手で尻を抑えて、よたよたと滑稽に小走りしながら、
助手席に転がり込むスキンヘッドの大男。
車輪が空転し、甲高い音と共に白煙を上げる。
車に鉛弾が跳ね、ライトが弾け、窓ガラスが割れる。
火を噴き続けるルルの二挺拳銃。辺り一面に次々と弾痕と火花、
砕けたアスファルトの粉塵が舞い上がる。
死を覚悟した手下達は恐怖に支配され、ボスを置いたまま、半壊の車を発車させた。
「クソッタレエェェ! チクショオォォ! 待ちやがれエェェッ!」
幼稚な呪詛を吐きながら、ボスは鏡の破片が刺さり血みどろの両手を、
まるで子リスのように可愛らしく、前にちょこんと揃えながら転げるように走り、
ルルがドアを開けたきりそのままになっていた、後部座席に頭から飛び込んだ。
新車同然だった黒の高級セダンは、ルルが絶え間無く銃撃を加え、
弾痕にまみれてみるみる廃車同然になっていく。
ボスの下半身がドアから飛び出したまま、激しく蛇行してタイヤの後を残し、
黒のセダンは町へと逃げ去っていった。
ルルは牙を見せてにやりと笑い、左の自動拳銃に残った最後の一発を、
銃を横に寝かせて遠くに霞むセダンに向けて撃ち込む。
銃の上部、スライドが後退して排莢口が開き、弾切れを知らせる。
露出した銃身から細い煙が立ちのぼる。
そしてルルは大笑いしながら振り返り、フェリエッタ達の元へ歩み寄る。
「みゃっはっはっはっ! 見ましたか、あの間抜けな顔っ! みゃはははっ!」
唖然とする青年を横に座らせ、大きな絆創膏と消毒液で傷の手当てをして、
彼と二人で全てを傍観していたフェリエッタはグッと親指を立てた。
ルルは両手の銃をクルクルと回し、顔の前で二挺を交差させて十字架を作り、
ポーズを決めてパチリとウィンクする。
煙る銃身に強く息を吹きかけてから、
二挺の銃身側を持つように右手に束ねてフェリエッタに渡す。
彼は受け取った自動拳銃の後退したスライドを戻し、
燕尾をふわりとめくり上げて、二挺を背中側のベルトに挟み込む。
「毎度ながら、お見事。タレ目のブルドックが銃に手をかけた時は少しヒヤッとしたがね。アドリブも完璧」
「今日は兄思いの気丈な妹を演じてみましたけど、どうでしたかにゃ?」
「主演女優賞ものだね。あのまま趣味の悪いポルノでも始まるのかと。
・・・ところで、君のご感想は?」
フェリエッタに軽く肩を叩かれて、顔に絆創膏を貼った青年は、
ハッとした様子で立ち上がると、二人に何度も頭を下げた。
「ほ、本当に助かりました。一体どうお礼をすればいいか・・・」
「お礼なんて結構です。それよりも、早くラルフお爺様の家へ配達に行って下さいにゃ。
きっと待ちくたびれてます」
「え? は、はい! 今すぐに!」
「どうか安全運転で」
青年はもう一度深くお辞儀をすると、
エンジンが掛かったままだったレトロなバンに乗り込み、
ラルフのログハウスの方へ走り去っていった。
「あ、ルル。ドレスに埃が」
「あら、私とした事が。申し訳ありませんにゃ、ご主人様」
フェリエッタがドレスの埃を払うと、
二人はワーゲンバスに乗り込み、再び町へ向けて出発した。
車を停めた時の時刻から、時計の針は五分程動いている。
助手席ではルルがチンピラ達から奪った銃を、フェリエッタが隅々まで眺めて鑑定している。
「ご主人様、その銃は?」
「ベレッタのコピーだね。こっちのリボルバーはチーフ・スペシャルのコピー。
どちらも新品同様。百発も撃ってない。シリンダーの薬莢からして、弾も射撃練習用の安い奴だ」
「奴らには過ぎたオモチャですにゃ」
「しかし、いつ見ても君は、地味に狡猾で、尚且つ残虐な方法で悪人を倒すねえ」
「にゃう? それは褒めてるのですかにゃ?」
「ああ。私は君のそういう所が大好きだよ」
「にゃふふっ、ご主人様には遠く及びませんにゃ!」
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
Undefined sin
罪とは何か。
神々が。人々が。誰かが定めた「法」を破ること。それが罪である。
目には目を。歯には歯を。無制御の欲望にはその対価を。
欲望がために、里を荒らし、命を奪い、魂を汚し、富を貪る者に無慈悲な対価を。
しかし、人々も、神々ですらも。
それを定義する事を考えもしなかった、明確な「罪と酷似したもの」が現れた時。
人々の、神々の想像を超えた、特異な出来事。
それを罪だと、絶対を持って呼べる者は、はたしてどれだけ現れるのだろうか。
もしも、月を打ち砕き、太陽を吹き消し、朝日と一夜を過ごし、
川のせせらぎを飲み干す者が現れた時。
その罪無き者に、その無価値な対価を要求できるだろうか?
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
夕日が山の陰に消えてから、既に二時間が経とうとしていた。
街頭の一つもない細い山道を、今朝と同じ薄紫色の霧が包み始める。
これが現世とネクロランドの境界を通過した証拠だ。
買出しが終わり、屋敷への帰路につくワーゲンバスはライトを消したまま、
木の間を縫うように走り続ける。
昼間と同じように夜目が利く彼女にとって、余計な光は邪魔でしかない。
「ご主人様、もうすぐ着きますにゃ」
「んん、分かった。今起きる・・・」
少々疲れた様子のルルが、
満月のように開いた瞳孔でフェリエッタを見る。返事とは裏腹にまだ夢の中のようだ。
朝、屋敷を出る時も同じような調子で眠っていたが、今の眠りは朝と段違いに深い。
ぼんやりと温かい屋敷の灯りがバスの窓に飛び込み、ルルの瞳孔が細くなる。
巨大な正門の前にバスを止め、渋くなったサイドブレーキを音を立てて引く。
ガタガタと背後に積み重ねた大量の木箱や麻袋が揺れる。
「ご主人様、ちょっと門を開けてくれませんかにゃ?」
「んん、よし、今開ける・・・」
フェリエッタは目を閉じたままダッシュボードを両手で押し始める。
どうやらルルの言葉は夢の中の彼に届いているらしい。
仕方なく、ルルはバスから降り、小さな体全体で重い正門を押し開ける。
再度バスに乗り込み、噴水を避けるように庭の石畳の上をぐるりと通り、
車庫へとバスを入れた。
ギイとサイドブレーキを引き、キーを抜く。特徴あるエンジン音が六時間ぶりに止まる。
「ご主人様、荷物を運ぶの手伝って下さいにゃ」
「んん、やれやれ、今運ぶ・・・」
「もう!」
先にバスから降りたルルは腰に手を当ててフェリエッタを睨む。
シートベルトを器用に抱きしめて、随分と幸せそうな顔で寝ている。
全く起きる気配が無い。
言葉に反応する事に気づき、ふと、ルルは良いアイデアを思いついた。
バスの反対側に回りこみ、開いた助手席の窓の下に隠れ、
甘い声でフェリエッタの耳元に囁く。
「おや、何でしょう。停まる車の周りに、何やら不気味な白い影が蠢きます」
「んん、一体何だろうか・・・」
「白い影には大きな口と鋭い牙。それはまるで、お腹をすかせたお化けのようです」
「んん、恐ろしいな・・・」
「青く不気味に光る二つの目。そして影は助手席ですやすやと眠る、黒い雄猫にぬるりと白い手を伸ばし・・・」
フェリエッタは弾けるように目を開けて飛び起きる。
抱きついていたシートベルトが手に絡まる。
暫くまばたきばかりを繰り返し、
巻きついたシートベルトをゆっくりと解きながら辺りを見回す。
現実と全く同じ光景の彼の夢の中では、不気味な幽霊が頬を撫でたと言うのに、
周りには誰もいない。
「なんだ、また夢か」
ミギャーッ!
瞬間、恐ろしげに叫び、爪を立てるように両手を上げて、
牙を剥いたルルが窓の下から勢い良く飛び出した。
それを表情一つ変えずにじっと見つめるフェリエッタだが、
獣の尻尾と耳はまるでバネで弾かれたようにピンと伸び上がり、
毛を逆立ててブルブルと震えている。
「みゃっ、みゃはははははっ!
えっ、絵に描いたように驚きましたにゃ! にゃはははっ!」
感情が剥き出しの部分の素直な反応にルルは腹を抱えて大笑いする。
寝起き一番で大笑いされているフェリエッタは、自分の尻尾をぐいっと強く引っ張り、
震えを止めると首を横に振り、苦笑いしながら助手席のドアを開けた。
「・・・何だか随分怖い夢を見た気がする」
「どっ、どんな夢ですにゃっ? みゃふっ、みゃふふっ」
「白くてちっちゃい幽霊に襲われた」
「いっ、一体誰の事でしょうにゃあっ! みゃははははっ!」
思い切り笑いのツボに入ってしまい、ひたすら笑い転げるルル。
バスのスライドドアを手で激しく叩きながら、息を切らして笑っている。
「ごっ、ご主人様っ! 先っ、先に行ってて下さいにゃ! みゃははははっ!」
「・・・適当に運んでおくよ」
小麦粉の入った大きな麻袋に抱きついてまだ笑い続けているルルを尻目に、
フェリエッタは手頃な木箱を一つ抱え上げて、屋敷の玄関へと歩き出した。
庭とはいえ、徒歩だと車庫から玄関まで四分ほどと結構な距離がある。
広い庭の所々には飾りの付いたガス灯がぼんやりと燈され、石畳を照らし出している。
花壇の脇やガス灯の間にはベンチも置かれていて、
玄関先の庭というよりは小さな公園のようだ。
「おーい! フェル兄ーっ!」
屋敷の上方からあどけない少年の声がした。
見ると、金色の瞳の少年が六階の出窓の上に座っていた。
ハンバーガーを頬張りながら、片手にはコーラの瓶を持っている。
少年は瓶を持つ手を軽く振ると、
地上三十メートル程の高さから当たり前のように飛び降りる。
その下約五メートルにある出窓に足をかけると、
下の出窓と出窓の屋根をジグザグに跳ねながら、
フェリエッタの目の前に膝をついて着地した。小さな見た目に見合わず、
衝撃で辺りが震え、芝生が窪む。
少年は一息ついてコーラを飲む。一滴も零れていない。
「やあシュラウド。今日も一人で夕食かい?」
「ほっとけ! 高いとこで食べないと落ち着かねーんだよ!」
丁度側にあったガス灯が彼の全身を照らす。
フェリエッタよりも頭一つ低い身長。
大きく幼げな金の瞳。見上げながら肉ばかりを三枚挟んだハンバーガーを齧る。
肩よりも少し短い、
毛先が跳ねた茶交じりの黒髪から覗く黒い耳は、フェリエッタよりも丸い猫の耳だ。
分厚く大きな黒のプルオーバーの上には、
銀に輝く中世の鎧の胴のような、鋼鉄製の防弾ベストを着ていた。
ボルトでしっかりと鎧に取り付けられた、
巨大な鋼鉄の首輪のようなベストの首周り。顎まで隠れるほど大きい。
胸には猫の頭蓋骨をあしらった大きなマークが黒色で塗られている。
大きな靴の爪先も胴と同じ鋼鉄製だ。
体に合わずダボタボの、ポケットだらけの黒いカーゴパンツからは、
伸ばすと身長近くまである細く長い尻尾が突き出し、
左右の太腿には体格とまるで合わない大きなホルスターに収められた、
無骨な二挺のリボルバー、コルト・パイソンが鈍く黒光りしている。
「今日はルル姉とどこ行ってきたんだよ? まさか二人でデート?」
「それも兼ねてたが、今日は皆を代表しての買出しがメインでね。
・・・そうだ、君にプレゼントがある」
フェリエッタは側にあったベンチの上に抱えていた木箱を置くと、
ベルトの後ろに挟んでいた二挺の拳銃を、
両手に持って左右逆に高速回転させながら取り出す。
それを見た子猫ガンマンのシュラウドは残りのハンバーガーを口に押し込み、
一気にコーラを流し込むと、
空になったコーラの瓶を肩越しに投げ捨てて、目を爛々と光らせた。
「すげぇ! スミス・アンド・なんとかのリボルバーじゃん!」
「正確にはコピー品だけど、見た所なかなか良いものらしい」
「店で買ってきたの?」
「いや、町に行く途中で犬と牛とサルに襲われてる人を見つけてね」
「そいつから貰ったの?」
「ルルが全部追い払ったら牛とサルが忘れていった」
「すげぇ! 普通の牛とかサルにも銃使える奴いるのか!」
「どうやら最近はそうらしい」
シュラウドは38口径のリボルバー、M36を受け取ると、
シリンダーを開けてまじまじと眺める。
自分のものより小さく、一発少ないシリンダーの穴。
その顔は新しいおもちゃを手に入れた、子供そのものだった。
「コレは初めて見る銃だなぁ・・ なあ、ちょっと撃たせろよ!」
「どうぞ。でもいつもの銃はマグナムだろう? 普通の38口径はあるのかい?」
「にへへっ、マグナムは持ってないよ。高いマグナム弾を大事に狙い撃つより、
普通の弾をバラ撒いた方が強いんだぜ?」
「合理的だね」
シュラウドの愛銃である二挺のコルト・パイソンは、
357マグナム弾を使用する高級リボルバーである。
今朝、ルルが垂れ目の犬男から奪い、
弾切れにして返したM19と双璧をなす、有名な銃だ。
強力な357マグナム弾と、通常のリボルバー用38口径弾の大きな違いは、
薬莢の長さと推進用火薬の量。
弾薬の太さは全く同じなので、一回り長い蓮根状の弾倉を持つマグナムリボルバーには、通常の38口径弾も問題なく使用できる。
カーゴパンツの大きなポケットから38口径弾を五発取り出し、
パチパチと素早く装填して、手首のスナップでシリンダーを閉める。
銃をくるくるとスピンさせてから撃鉄を起こし、
先程投げ捨てたコーラの瓶に、片手で狙いを付けて発射した。
パァン! 銃の反動を肘で逃がすように、大げさに銃を跳ね上げる。
一発、二発と夜空に乾いた銃声が響く。
六メートル程先に落ちたコーラの瓶はまだ無傷だ。
今度は両手でしっかりと構え、腰を落として撃つ。
三発、四発。すぐ近くには当るものの、横向きに寝た瓶はびくともしない。
「的が小さいな。ちょっと貸して」
悔しげなシュラウドは、起こしていた撃鉄を戻して銃をフェリエッタに放り投げて渡す。
左手で逆向きに銃を受け取り、右手にパスしてシリンダーを開ける。
未使用の一発を親指で抑えて、他の空薬莢をベンチに置いた木箱の上にばら撒く。
ルーレットのようにシリンダー回してから戻し、
人差し指を立て、銃を顔の横で宙に向ける。
握り拳を作った左手を背中にぴたりと付け、
そのままくるりと後ろを向き、一歩、二歩と瓶から距離を空ける。
固唾を飲んで見守るシュラウド。
そして、瓶との距離が15メートル程開いた所で、振り返りざまに片手で発射した。
パァン!
乾いた銃声と同時に、コーラの瓶が煌きながら粉々に砕け散る。
目を輝かせて拍手をするシュラウド。
「さすが! あんな所から片手でよくも! フェル兄はやっぱり上手いぜ!」
「はは、近距離の実戦では君の撃ち方の方がいい。狙うより連射だ。ところでこっちのオートはどうだい?」
フェリエッタはリボルバーを返してから、もう一挺の9ミリオート拳銃、ベレッタを見せる。
シュラウドはそれを手を振って遠慮する。
「あー、悪ぃけど俺オート嫌いなんだ。
よく分かんねーけど、毎度半分も撃たない内に弾が詰まって」
「恐らく構え方の問題だな。今度ゆっくり教えてあげるよ」
「分かった。また勝負しようぜ! 今度は一発で当ててやるから!」
シュラウドは長い尻尾に貰ったリボルバーを巻きつけると、
屋敷の壁に伝うパイプや壁の彫刻の突起を器用に伝って屋根によじ登る。
そして、八階の開いた廊下の窓から屋敷の中へと消えていった。
得意な銃の扱いを披露して完全に目を覚ましたフェリエッタは、
売れ残ったオート拳銃をベルトに挟み直すと、木箱を持とうとベンチの方へ振り返る。
「にゃふふ、銃派の皆様は大変ですにゃあ」
何時の間にか、木箱の横にルルが音もなく座っていた。
揃えた膝の上に肘を置いて頬杖をつき、
傍らには先程抱きついていた大きな麻袋が台車に乗せられて置いてある。
フェリエッタの顔を見た途端、ルルはまたくすくすと笑い始める。
「・・・今度は驚いてないぞ?」
「たっ、ただの思い出し笑いですにゃ。・・みゃふふふっ」
重い木箱を持ち上げ、二人揃って玄関を目指す。
ルルの押す台車がカラカラと音を立てる。
台車を押し、荷物を抱えながら玄関の前に立つと、
二人が手をかける前に大きな扉がいきなり開いた。
「チィヨコレェトキイァラメェルウゥゥゥ!」
ノイズにも似た少女の叫び声。シャンデリアの後光に照らされ、
仁王立ちの影に赤い右目だけが不気味に光る。
他の誰でもない、ツギハギ兎のアリスだった。
「ただいま、アリス」
「ドコ? わたしのチョコレィトカラメルどこ!」
「まだ車だと思いますにゃ。良かったら運び出すのを手伝ってくれませんかにゃ?」
「分カったわ! いまスグ全部運んであげルわ!」
アリスは二人を押し退けるようにして裸足のまま、
狂ったように笑いながら車庫へと走っていった。
ペタペタと裸足で石畳を走る足音が遠のいてゆく。
「ルル、この箱はどこに持っていけば?」
「ええと、それは確か料理酒とワインですにゃ」
「キッチンでいいな。近くて助かった」
フェリエッタが玄関から見て左側の廊下へ向かおうとした時、乱暴な足音が帰ってきた。
歩けば往復で八分、全力で走っても五分は掛かるはずの所を、僅か六十秒で戻ってきた。
「キヒヒッ! まずハコレだけ!」
まるでウェイトレスが食事のトレーでも持つように両手に乗せて走って来たのは、
ルルがやっと台車で一つ持ってきた25キロの小麦粉の麻袋と、砂糖の麻袋だ。
それも片手に二つずつ、合計百キロを軽々と持ってきた。
床に小麦粉と砂糖の袋をドスンと置いて、またケタケタ笑いながら闇へと走り去る。
言葉もなく顔を見合わせる二人。そうこうしている間にまた足音が近付いてくる。
「次ハこれとこレとこれとコレ!」
「あああっ! それ割れ物ですにゃアリスさん投げないで!」
今度は飲料や生活雑貨が入った箱を片手に五つずつ重ねて来た。
床に投げ落とそうとするアリスをルルが必死に止める。
暴走するアリスをルルが説得し、どうにか品物を壊さずに床に置くと、
再度アリスは駆け出そうとする。
その後姿に、台車から小麦粉の袋を重そうに両手で抱えて下ろすフェリエッタが呟く。
「アリス、この台車を使ってみたら?」
「ダイしゃ! 考エもしなかっタわ! 名案ヨ!
やっパりフェリエッタは天才ね! イヒャヒャヒャッ!」
奇妙に笑い、アリスは台車のハンドルを掴むと、
前傾姿勢で猛ダッシュする。下手なバイクよりも速い。
錆びた車輪がまるで電車のブレーキのような甲高い音を立てて軋み、
暗闇に火花を吹き散らす。
「・・・やはりアリスさんの怪力はケタ違いですにゃ」
「頼りになるね」
半分呆れたように見守るルルと、素直に尊敬するようなフェリエッタ。
また、壊れた笑い声が闇の中から迫る。車輪の音は響かず、ペタペタと足音だけが響く。
「持ってキたわ!」
残りの木箱や小さな紙袋を山のように積んだ台車を、
アリスは両手で天高く掲げるようにして持ってきた。
投げられる前にルルが飛ぶように走り寄り、台車の先端を掴んでゆっくりと下ろす。
「ああ、アリス、それは帰りも押した方が楽だぞ」
「キヒャハハッ! 忘れテたわ! 結構アタマ使うわね! イヒヒヒヒッ!」
「それと、あのバスは車庫に置いたままでいい」
「ソレは知ってルわ!」
台車の上、箱の山からルルが白黒で印刷された紙箱を一つ拾い上げる。
チョコレートキャラメル十二個入りと書かれた、
卸業者が小売店に販売するためのパッケージだ。
「はい、アリスさん。約束のお品ですにゃ」
それを見たアリスは、足を交差させながら両手を胸の前で合わせ、
初めて少女らしい、可憐な仕草を見せた。
顔の人間らしい部分はとても幸せそうに笑い、
左目は感動で潤んでいる。そこだけを見ればとても可愛らしい。
しかし、渦を巻いた赤い右目と、
血の気が無い兎の耳は、痙攣したようにビクビクと気味悪く蠢いていた。
「キヒャッ! フェリエッタにいサマありがと! ルルねエさまもっとありがと!
キヒャヒャヒャヒャアァーッ!」
アリスは宝物を抱えるように、キャラメルの箱を潰れるほどにぎゅっと抱きしめると、
床板を踏み壊さんばかりの勢いで、階段脇の開け放たれたドアの向こうへと走り去った。
「ふう、助かった」
「命拾いしましたにゃ・・・」
「いつもなら荷下ろしだけで三十分は掛かるのに」
「ご主人様はアリスさんの事を脅威に感じないのですかにゃ?」
「元気な良い子じゃないか。おまけに結構美人さんだ」
「お菓子が切れた時のアリスさんは二度と見たくないですけどにゃ・・」
「難しい年頃なのさ。それに、大体の女の子は甘いものが好きと決まってる」
「・・・いつものに着替えて来ますにゃ。あと夕食の準備を」
「私もそうしようか。ついでにみんなを集めてくるよ」
ルルは木箱を一つ持ち上げると、
台車の山から肉や野菜の入ったいくつかの小袋を木箱に乗せ、
疲れた様子で尻尾をぶらぶらと振りながら屋敷の奥へと歩いていった。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
同刻の現世。老兵ラルフの家から数百キロほど下りたふもと。
山脈の周りを沿うように作られたハイウェイ。
深い闇夜が辺りを覆う中、道路脇に煌々と輝く大きな看板。
燃え盛る炎のような書体で「ヘルズ・ドライブイン」と書かれた、威圧感のある物だ。
その奥には古びた一軒の店が立っている。まるで西部劇の酒場のようで、
その施設を一般的なドライブインと言うにはどう見ても語弊がある。
酒場の中から聞こえてくる、軽妙でノリの良い、
転がるようなギターとドラムの音。60年代のアメリカンロックだ。
中型バイク、黄色のオープンカー、高級スポーツカー。
広い駐車場には多種多様な車両が並んでいる。
派手な塗装や改造を施した車の中に、一台だけ黒の高級セダンが停められていた。
サイドミラーがもぎ取られ、ガラスは所々が破け、
後部一面に弾痕が散りばめられている。
ガシャン!
大きな音を立てて、店の入り口にある酒場のウエスタンドアが弾けるように開く。
同時に、中から黒革のジャケットを羽織った男が飛び出し、
仰向けに地面に叩きつけられた。
追いかけるようにして、金髪で露出の多い、
派手な女が男の隣でしゃがみ込んで介抱する。
女の手を借りて立ち上がった男の顔には、真新しい大きな痣があった。
「クソっ! お前ら覚えてろよ!」
男は吐き捨てるように叫び、女を連れて中型のバイクに跨り、逃げるように走り去る。
それを見届けて、揺れるドアの中から醜悪な笑い声がする。
「グハハハ! 腰抜けのクソガキがぁ! 一発で尻尾巻いて逃げやがった!」
椅子の上、勝ち誇ったようにふんぞり返るのは、スキンヘッドの大男だ。
茶色スーツは下だけが真新しい紺のズボンで、センスの無さに拍車がかかる。
「うへへへっ! 見たかよあのザマ! しかも女連れだぜ、あのビビリ!」
鼻にかかった声で、吸殻でいっぱいの灰皿に、さらにタバコを押し付けるリーゼントの男。
折れた鼻だけでなく、顔半分を包帯で大げさに覆っている。
「ガハハッ! 俺たちのシマで俺たちに敵う奴なんざどこにも居ねぇよ! ・・ック」
テーブルに氷の入ったグラスを叩きつけて、垂れ目の男が叫ぶ。
顔には点々と軽い火傷の跡がつき、その両手にはびっしりと絆創膏が貼られていた。
三人が座るテーブルの上には酒瓶とグラスが散乱している。
この国、シャルドリアの法律では、泥酔しておらず、
正常な判断が出来れば多少の飲酒をしていても車の運転を許されるが、
チンピラ達は溺れるように酒をあおり、完全に泥酔している。
「・・・お客さん、そろそろ止めた方が」
「黙らねぇか! 黙って酒を持って来い!
まさか俺らを知らねぇなんて言わせねぇぞ!」
脂ぎった頭に照明を反射させながら、大男が酒場の店主を怒鳴りつける。
酒場の店主がカウンター越しに制するが、
大男の気迫に押されて止むなくブランデーの瓶を差し出す。
周りの椅子を蹴飛ばしながら、スキンヘッドを光らせてカウンターに置かれた瓶を掴む。
尻をナイフで抉られた事を悟られまいと痛みを堪えて振舞うが、
よたよたとした歩き方は、誰がどう見てもおかしい。
振り向きざまに、離れた席に座っていた男女四人組の一人と目が合う。
「なんだぁ? その目は! 俺達に文句でもあるなら言ってみろ!
オラ! ぶっ殺されてぇか!」
男が肩で風を切りながら四人組に近づこうとする。
彼等は悲鳴を上げて飛ぶようにドアへ逃げる。
次々と四人が通り抜け、カラカラとドアが音を立てる。
一呼吸おいて、チンピラ三人は先ほどと同じように大声で笑い始める。
それを見て、酒場に残っていたもう一組の男女もテーブルに代金を置くと、
足早に酒場を後にする。
店に残ったのはいまいち押しの弱いマスターと、下衆極まりない三人のチンピラ。
「これで今日は俺たちの貸切だな! おい! 一番高ぇ酒をよこせ!」
垂れ目の男が怒鳴る。店主はカウンターの下に隠した散弾銃に手をかけて叫ぶ。
「やりすぎだ! 今すぐ全員帰ってくれ! でないと・・・」
「でないと何だ?」
カチリ。垂れ目のボスが、素早く店主、片手で真横に傾けた銃を突きつける。
言葉を詰まらせ、反射的に両手を挙げる店主。
銃で手招きするように酒を促され、
奥に並べた瓶の中からひときわ高級なコニャックを差し出す。
乱暴に手から左手で瓶を奪い取り、
銃を持ったままの右手でコルクを抜き、ラッパ飲みする。
ふらふらと席に戻り、ドスンと椅子へ腰かけ、さらに浴びるように飲む。
夢を語るようなギターソロ。殺伐とした状況と場違いに軽く楽しげなロックが、
楕円形をした年代物のジュークボックスから流れ続ける。
「ガハハハハッ! 誰も敵わねぇんだよ! ボケ!」
カラン。
その時、酒場のドアが軽い音を立てて開いた。店主とチンピラ達が一斉にドアを見る。
鋲の付いた漆黒のライダースジャケット。
その下には赤が目を引くロックバンドのTシャツ。
所々が解れた黒のダメージジーンズ。180センチはある身長と、筋肉質な体格。
大柄で、細身な影が天井の照明に照らされる。
メリハリのある胸の膨らみとしなやかな体のライン。女性だ。
しかし彼女が纏う雰囲気には、女性とは思えない程の、非常に強烈な威圧感があった。
右腰に下げられた、膝まである皮製の巨大なケース。
ナタか大きな整備工具でも入っていそうな見た目だ。
コツコツと大きなブーツを響かせ、革手袋をした手をポケットに入れ、カウンターへ歩む。
深い赤色に染められた、男性ほどに短い髪。
静かに俯く顔にはバイク用の大きなゴーグルと銜えタバコ。
チンピラ達の横を通り抜け、
一息ついてからカウンターに置かれた灰皿にタバコを押し付ける。
静かにゴーグルを下ろして首にかけ、呆然としている店主を睨むように見る。
控えめのメイクに端整な顔立ち。その目には思わず怯んでしまうほどの力があった。
「・・・レモンコークを一つ」
低く響くハスキーボイスで注文したのは、見た目に似合わぬソフトドリンクだ。
店主は後ろのチンピラ達の様子を伺いながら小声で彼女に警告しようとする。
「お客さん、今日は帰った方がい・・・」
「いいから早くしな」
静かで落ち着いた口調だが、チンピラ達の脅しに勝るとも劣らない気迫だった。
気圧された店主は慌ててコーラを氷の入ったジョッキに注いで、
輪切りのレモンをジョッキのふちに差し込んで出す。
赤髪の女性はカウンター席に腰掛けて足を組むと、
レモンをコーラの中へ浮かべて揺らしながら飲む。
「へへぇ、いい所に来たなぁ、姉ちゃんよぉ!」
鼻にかかった大声。
顔面に包帯を巻いたリーゼントの男がタバコを銜えて椅子から立ち上がり、
肩を揺らして女性に近づく。タバコをふかし、女性の後ろから顔を覗き込む。
女性は全く意に返さず、遠い目をして少しずつコーラを飲んでいる。
「せっかくの縁だ、俺らと一緒に来いよ。悪いようにはしねえぜ?」
後ろのテーブルで下品に笑い、にやけるチンピラ二人。
女性はギロリとリーゼントの男を睨む。思わず後退りするリーゼントの男。
「・・・消えな、ミイラ野郎」
低く、落ち着いたその声に場の全員が気圧される。
彼女は視線を明後日に戻して、またコーラを揺らす。
「う・・・ へへへ、俺、お前みたいな気の強い女、好みでよぉ!」
まるで後ろに一匹、ハエがいるとでも言うように、彼女は微動だにしない。
「おいおいおいおい、無視はねぇだろぉ? なぁ、ホラ!」
男は無防備な女性の肩に手を伸ばす。その瞬間、男の手首が逆方向に曲がった。
「いっ・・・ ぎぃやあぁぁ!」
鋭い痛みに耐えかね絶叫するリーゼントの男。
テーブルに座っていたチンピラ達が何事かと立ち上がる。
何が起こったのか把握できない店主。見れば、
女性は男が触ろうとした肩とは逆側の手で男の手首を返し、関節を固めていた。
喧しく叫び続けるリーゼントの男。二人のチンピラが駆け寄る。
女性は振り払うように手を離し、コーラを一口飲む。
カコン。ジュークボックスからロックンロールが鳴り止み、曲の演奏が止まる。
自動演奏の機械が、次のレコードを探し始める。
「・・・うるせえよ」
言い放つと、まだ三分の一ほどコーラの残ったジョッキを置き、懐からタバコを出して、
『SHERIFF』と刻印された、
西部劇の保安官バッジが付いた真鍮色のオイルライターで火を着ける。
カチン。カチャッ。軽い金属音が、一瞬で静まり返った酒場中に響く。
「な・・何しやがるこのアマァァ!」
手首を押さえて男が叫ぶ。他の二人も身構える。
ギターの音がジュークボックスから流れ出した。
テンポの速く、攻撃的で激しい、頭を振りたくなるようなロックンロールだ。
Slam it! Blast them! Rock‘em this!
ぶん殴れ、 ブッ飛ばせ、 ロック魂を見せ付けろ!
攻撃的な歌詞が流れ出す。
「おめぇ、誰に喧嘩売ってるのか分かってるのか? あ?」
「常識を知らないらしいなぁ?」
女性は大きく溜息をつくように煙を吐き出すと、
タバコを銜えて座ったまま、椅子の座面を回して、くるりとチンピラ達の方を向く。
開いた切れ長の瞳には、刃物のような眼光と、炎のような怒りが静かに宿っていた。
「やめときな。あんたらじゃ、子猫一匹殺せねぇよ」
「な・・ 何だとこのアバズレが! 身の程知りやがれ!」
子猫も殺せない。彼は今朝、子猫のような小娘に受けた屈辱をありありと思い出す。
見事に図星だ。怒りで一気に頭が沸騰した、
スキンヘッドの男が座ったままの女性に殴りかかろうとする。
ドスッ。
「お・・ おおおっ・・・ おがっ・・・」
椅子に腰掛けたままの、女性が履く鉄板入りの硬いライダーブーツが、
スキンヘッドの男の股間にめり込む。
痛みのあまり両手で股を押さえ込み、その場に跪く男。
女性はゆっくりと椅子から降りると、思い切り男のアゴを蹴り上げた。
「へぶあぁぁっ!」
膝を付いたまま仰向けに倒れ、光る頭を木製の床に強打し、
失神して痙攣するスキンヘッドの男。
三人組きっての乱暴者が、一瞬で床に沈む。今朝の悪夢を鮮明に思い出し、
恐れをなして身を退かせるリーゼントと垂れ目の男。
「ハゲめ」
女性は静かに、一言だけ、判りやすく彼を罵る。
リーゼントの男は尻尾をまくって自分のいたテーブルまで後退し、
手近な細長い酒瓶を掴んで、瓶底をテーブルに叩きつける。
バリンと音を立てて底の割れた酒瓶の切り口は、鋭利で凶悪な刃物と化す。
鳴り止まぬロックンロール。
「オラァ! どうした! 来いよアバズレがあぁぁ!」
片手で持った酒瓶を引け腰で振り回すリーゼントの男。
女性は両手の拳を交互にゴキゴキと鳴らしながら、確実に距離を詰める。
武器の一つも持っていない女性に威圧され、
怖気づく男はどんどん壁際に追い詰められてゆく。
必死の形相で、割れた酒瓶を振り回す男。女性は眉一つ動かさずに、
手近にあった木製の椅子を両手で掴み上げ、
そのまま男の頭上に振り下ろした。
とっさに女々しく身を引いて、椅子をかわすリーゼントの男。
しかし、突き出していた酒瓶と椅子が僅かに触れ、
一瞬にして男の腕から瓶が叩き落される。
酒瓶が粉々に砕け散る音と、椅子の壊れる音。彼は唯一の武器を失ってしまった。
「ひっ! ひいぃぃ!」
不揃いな牙を失くしたリーゼントの男は、怯えた犬のような声を上げ、
死に物狂いで壁伝いに逃げようとする。
女性は何も言わず、すぐ脇のテーブルの上にあった、
まだ中身の残るブランデーの瓶を逆手に持つと、男のリーゼントめがけて振り下ろした。
酒瓶が粉々に砕け、アルコールが香る液体と破片がキラキラと照明に反射する。
自慢のリーゼントは酒瓶を叩きつけられて潰れ、
さらに残っていた酒を頭から大量にかぶる。リーゼントが緩衝材の代わりを果たし、
かろうじて頭蓋骨が砕けるのは避けられたが、彼の脳髄は激しく揺さぶられた。
短い悲鳴を上げ、まるで幽霊のようになったべとべとの髪から水滴を滴らせ、
一撃で昏倒する男。
「そっちのが似合うな、ミイラ野郎」
仰向けに倒れ、痙攣する男が二人。
震える足で立ちつくす男が一人。残るは垂れ目のボスだけだ。
Cock it! Take aim! Bang‘n down!
叩き起こせ、 狙え、 ブッ放せ!
レコードの中のロックンローラーが金切り声で叫ぶ。
「動くんじゃねぇ! 動くんじゃねェェェ!」
完全に酔いが覚め、顔を青くした垂れ目の男が、
女性にリボルバーを突き出すように向けた。
へっぴり腰で銃を握る両手はガタガタと震え、弱そうな顔がさらに弱々しく見える。
女性はぴくりと短く細い眉を動かすと、ゆっくりと男に向かって正面を向く。
垂れ目の男と女性の距離はおよそ五メートルだ。
「動くんじゃねぇ! こいつはマグナムだ! てめえの頭なんぞ熟れたトマトみてえに
グチャグチャに弾け飛ぶ! 死にたくねぇなら跪きやがれ!」
朝の特別授業の成果を正しく復習して、少し勝ち誇ったような顔をする垂れ目のボス。
それを見た女性は、銜えタバコの煙を吐き出して、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「な・・ 何がおかしい! 俺は本気だ!
跪かねえとこいつをぶっ放すぞ! ぶっ殺すぞ!」
「・・・フン、粋がるなよ、タマ無しのフニャチンが」
女性の言葉に、垂れ目の男は恐怖を覚える。何故なら、
彼の銃には弾が一発も入っていなかったからだ。
回転式拳銃は、銃身に直結する蓮根状の弾倉へ直接弾を込める。
装填されている状態で正面から見れば、銃身横に見える弾倉の穴、
薬室から銃弾の頭の部分がハッキリと見える。そして最初に撃ちだされる弾は、
男が持つスミス・アンド・ウェッソン製の銃の場合、
女性から見て左上の薬室。その部分ととその下にも弾が無いという事は、
少なくとも最初の二発は空撃ちになる。女性はそれを一瞬で見抜いていたのだ。
早朝、子猫娘に銃を奪われ、頭スレスレをなぞる様に、
装填していた弾を全て撃ち込まれた。
垂れ目の男にとって、銃はあくまで他人を脅す為の道具でしかない。
かさ張り、高価な予備のマグナム弾薬など持ち歩かない。
「こっ・・ あっ・・ アバズレがァァ!
どいつもこいつも馬鹿にしやがってェェ! 死ねェェェ!」
激昂した垂れ目の男が、親指をかけてリボルバーの撃鉄を起こそうとする。
指に力を入れ、半分まで撃鉄が起き上がる。
その瞬間、女性は腰の大きなケースに手をやると、
神業的な速度で中の得物を引き抜いた。
銀に光る、腕の半分もある巨大な鉄の塊。
特注の木製グリップ。そして、男を睨む巨大な『砲口』。
それは、垂れ目の男が突きつける357マグナムなど、
比較にならない程に巨大な50口径の回転式拳銃、M500だった。
10.5インチの銃身。そのあまりに巨大な全長は50センチ程もある。
大人と子供ほどにも違う大きさの薬莢に詰められた、
大量の無煙火薬が生み出すその破壊力は、
単純にデータで見ればおよそ五倍も差がある。
カチリ。目線と銃の照準器が水平になる瞬間に、
銃身から二の腕へと滑らせた左手で、鉄の塊のような撃鉄を叩き起こす。
一連の動作は、僅か0.3秒の出来事。男はまだ撃鉄を起こしきれていなかった。
小数点以下、数秒の沈黙。僅かに細めた目で女性が睨みつけるのは、
驚愕と焦りで大きく見開かれた垂れ目の瞳。
ジュークボックスのロックンロールは最高潮。
Oh! Yeah! Rockin doooown!
最高だぜ! ロッキン・ダウン!
ロックのボーカルはシメの雄たけびを上げる。そして―
「モノ見て言いな!」
ズダアァァァン!
爆発音にも似た、あまりにも強烈な銃声と衝撃波が酒場中を突き抜ける。
驚いてカウンターの奥にいた店主が倒れ込む。
銃口から噴き出す爆風で、辺り一面を覆う粉塵。永遠にも感じられる程の、
一瞬の静寂。店主は恐る恐るカウンターから様子を伺う。
塵が晴れ、そこに見えたのは、銃口から煙を上げる巨大な銃を片手で構える女性と、
床に開いた大穴に片足を突っ込んで、完全に放心状態で震える男の無様な姿だった。
男の小さなマグナム銃は腕を離れ、
床を滑り、遥か遠くのテーブルの足に軽い音を立ててぶつかった。
女性は男を撃ち殺さなかった。男の左足のギリギリ手前2センチ、
老朽化していた床板を粉々に撃ち抜き、その穴にはめて転ばせたのだ。
「あ・・・ ああ・・・ あああ・・・」
床に片足がはまった垂れ目の男の股間がじわじわと湿る。
酒ではない。あまりの恐怖ゆえの失禁である。
女性はそれを見ると、満足げに銜えタバコでにやりと笑い、
巨大な銃をぐるぐると華麗にスピンさせて腰に収める。
ばらけたドラムの乱打に続いて、決め台詞のようなギターのフィニッシュ。
戦闘と同時に、ロックンロールも終幕を迎えた。
傍にあった、割れた酒瓶の底でタバコの火を消し、煙を吐いて笑い出す。
「ふふ・・ ハハハッ、そっちもフニャチンかよ」
「あ・・ ああ・・・ だ・・・ 誰だ・・!
何者だあぁ! お前は何者なんだぁぁぁ!」
貫禄も、威厳も、銃も、プライドも無くした男は、
癇癪を起こした子供のようにわめき、騒ぐ。
手下達は完全にノックアウトされ、呻き声を上げながら悶えている。
「アタシの名前を知りたいか?」
女性はライダースジャケットのジッパーを下ろして、懐に手を入れて探る。
そして小さな革製の黒いケースを取り出し、
穴に嵌って震える子犬のような男にそれを突きつけた。
「う、嘘だろ・・・? お前のような奴が・・・
そんな、ああ・・・! ああ・・・!
なんて、なんて女運がねぇんだ・・・! 畜生、畜生・・・っ!」
ケースを見て、驚愕のあまり言葉を無くす垂れ目の男。
女性は懐にバッジの付いたケースを戻すと、腰から手錠を取り出して言い放った。
「アッシュ・グローヴァー。刑事だよ。お前等三人を暴行致傷と恐喝に殺人未遂、
ついでに婦女暴行未遂の現行犯で逮捕する」
ジュークボックスが、次のロックを流し始めた。
壮大で、何かをやり遂げたような、遅めのリズム。
You are Looks like are Loser!
お 前 は ど う 見 て も 負 け 犬 さ!
今まさに、ここに負け犬が三匹誕生した事など、
レコードの中のロックンローラーは知る由もない。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
同刻。パトカーのサイレンが響き渡り、
騒がしい物音と罵声がたちこめる酒場とは対照的な静寂。
紫煙が夜を彩るネクロランド。
巨大な屋敷の一階、長い廊下の先、大きな扉を開けた先に広がるダイニング。
優雅なバイオリンの音色と、大勢の食器の音に混じる談笑の声。
まるで高級ホテルのレストランのように広大で、
天井にはシャンデリアが幾つも吊り下げられている。
装飾も大きさも様々なテーブルと椅子。上れない位に大きな椅子もあれば、
椅子と間違うほど小さなテーブルもある。
そこに座り、食事をとる各々には一人として同じ輪郭をした者はいない。
まるでお姫様のような桜色の、ロリィタドレスを着た少女。
しかし眼帯を付けた、ツギハギ顔の半分はゴム製の作り物。
完璧に整った顔をした、人形のように無表情な黒いゴシックドレスの少女と、
チェックのスカートにパーカーを着た、ガーリーパンクな全身ツギハギだらけの少女。
三人とも似たような猫の耳があり、
同じテーブルで盛り合わせの料理を食べながら談笑している。
身長二メートルは優にある、雄牛のような二つの角を生やした、
丈が長く趣味の悪いプリントのTシャツを着た女性。
テーブルの向いに座る片耳が少し欠けた猫の少女と、
静かに語り合いながら彼女が美味しそうに頬張る物は、
ドル札の刺青が付いた、悪人だった人間の腕だ。
眠そうな顔をした猫の少女も、同じような人間の肉を大きなナタで切っては齧っている。
まるで花瓶のような、
かなり大きいグラスに山のように盛られたアイスやウエハースにプレッツェル。
隣には直径30センチもある、フルーツとクリームだらけのケーキ。
それを貪るように無我夢中で頬張るのは、もちろんアリス。
金色のスプーンを折れるほどに握り締め、
白いケーキを牙が目立つ口にひたすら押し込んでゆく。
あっと言う間に巨大な10号のケーキが小柄な彼女の胃袋に収まる。
見上げたクリームだらけのツギハギ顔は恍惚に満ちている。
続いて横にあったパフェのグラスを掴んで、天を仰ぐように口に流し込む。
極度の甘党のアリスにとって、パフェは飲み物だ。
清楚な夏服のワンピース。ひまわりの花が付いた大きな帽子を被った、
さらさらの髪の小柄な骸骨。
彼女は中央にある、巨大な長テーブルの席の一つにちょこんと座っているだけだ。
その頭蓋骨に表情は無い。しかし彼女の雰囲気が優しげに微笑んでいる。
頭に大きなボルトが刺さっている少女。
顔以外の体の殆どはガラクタのような機械で出来ていて、歩くたびに金属音がする。
ダイニングの脇にあるバイキング形式の料理の山から目当ての物を探しているが、
なかなか見つからなようだ。
ふと、彼女は料理の脇にあった懐中電灯を見つけると、
分解して中の電池を口に放り込む。キャンディのように電池を舐めて放電させる。
彼女の動力はバッテリー。食事といえば充電なのだ。
天井の隅で逆さにぶら下がり、逆に持った皿に盛られたイチゴを食べる。
彼女はコウモリだ。着ている簡素なドレスには、大きな銀の逆十字架が描かれている。
逆さになると正しい十字架の姿が現れる。
その対角線にある隅にいるのは下半身がクモのエンデューラ。
美しい花を模して張られた蜘蛛の巣に張り付いて、
手作りのヴァイオリンを優雅に弾いている。
ドレスは今朝の物とはまた違った豪華なものだ。
右にも左にも、人間のそれとはかけ離れた姿の者のみ。
この場所で“普通”という概念は、洋服に付いた糸屑程の意味も持たない。
容姿も、食べる物も、くつろぐ場所も。全てが異常であり、同時に全てが常識だ。
もしもこの場所に普通の人間がいたら、
当たり前の行動の異常さがひときわ目立つ事になるだろう。
「・・・そこでやっと、逃げるあの人間の後ろ姿を見つけたのよ!」
大きく自慢げな少女の声。その主はキツネのリヴァーネだ。
骸骨の少女も座っている長テーブルの上座、
ひときわ大きく豪華な椅子の上に立って興奮気味に武勇伝を語る。
テーブルの脇に立てかけられた、
望遠スコープ付きのライフル銃と水平二連の大きな散弾銃。
そのテーブルの中央には、
二枚の狩猟許可証と、二つの赤い帽子が無造作に放られていた。
リヴァーネのすぐ横の席にはフェリエッタが、
その向いの席にはルルが座って彼女の話を聞いている。
着替えた二人の私服は外行きの衣装よりも装飾が少なく、
特徴的な耳も尻尾も露出した楽なものだ。
感情に合わせて、先端に赤色のリボンを巻いた白の尻尾と、
漆黒の尻尾がゆらゆらと揺れる。
「すぐにフェリエッタに貰ったあの銃を撃ったわ。
そしたら、あの人間、どんな声を出したと思う?」
随分と嬉しそうな様子で、両耳を真正面に向けて聞き入る二人に問題を出す。
「たぶん追われた羊みたいな泣き声ですにゃ」
「いや、木から落ちたサルみたいな声だろう」
笑みを抑えきれない口を左手で押さえ、右手を横に仰いで“不正解”のジェスチャー。
「正解はね・・・ ふふっ・・・ うふふふ・・・
ああダメ、思い出すだけで! ちょっと待って!」
顔を伏せて笑い出す。ルルとフェリエッタにも笑みが伝染する。
「あいつら、撃たれた瞬間『あひょ!』って! あひょって! あっ、あはははははっ!」
思い出し笑いに火が付いて、豪華な椅子の背もたれを抱くようにして、咽るほど笑う。
太い金色の尻尾がバタバタと大暴れして、テーブルを叩き続ける。
「一体どこの言葉だろうね、『あひょ!』って言うのは」
「きっと彼らの暗号ですにゃ! 意味は恐らく・・・」
『痛い!』
同時に同じ結論を出す猫の二人。火に油を注がれて今度は椅子から転がり、
床の上でひたすら笑い転げる。
ひとしきり笑い尽くした所で、リヴァーネはルルに手を貸されて起き上がる。
「ああ、笑い死ぬかと思った・・・」
その言葉を彼女が口にした瞬間、彼女自身の笑みが、
まるで蝋燭に水をかけたように消えた。
少し遠い目をしてから、ワイングラスに注がれた葡萄のジュースを一気飲みする。
「今更だけど、この椅子あなたの特等席じゃないの? フェリエッタ」
「椅子なんてどれも一緒さ。これが一番豪華なだけ。座り心地はいいけどね」
「あなたってさっぱり分からないわね」
「どの辺りが分からない?」
「あなたがこの屋敷で一番偉いんでしょ? なのに一番偉そうに見えないわ」
「個人的に上下関係が昔から嫌いなだけ。
折角ここに来れたのに、ここでも縛られたら本末転倒だろう?」
「個人的にねぇ・・・ 初めて聞いたわ、そんな理由」
何か嫌な事を思い出したように、眉間に力を入れて俯くリヴァーネ。
ルルが新しい葡萄ジュース、グレープ・スパークルの栓を開け、彼女のグラスに注ぐ。
椅子に座り直し、軽く頷いてからまた一気飲みする。
力を失ったように動きを止め、垂れ下がる大きな耳と尻尾。
何か言いたげなリヴァーネを案じて、フェリエッタが真面目な顔で口を開いた。
「・・・そういえば一週間前、君がここに来た理由を聞いてなかったね」
一週間前。ネクロランドに向かうルルのワーゲンバス。
突如現れた完全武装の人間の車列。それらが厳重に守っていたもの。
それがリヴァーネだった。未だ、何故捕らえられていたのか分からない。
彼女はガラス細工のように透き通る灰色の瞳で、ハッとしたようにフェリエッタを見る。
暫く考えこんでから、難しい顔をして重い口を開いた。
「・・・アノマリー・ハンティング・ゲームを知ってるかしら」
「初めて聞いた」
「そう。やっぱりやめとくわ。私の口からじゃどうしても・・・」
「それなら知ってるぜ?」
突然、リヴァーネの後ろから少年の声がした。三人は一斉に声がした方を見る。
そこに立っていたのは、ルルよりも小さなリヴァーネより、
ずっと小柄な、身長120センチ程の少年だった。
機械油とすすで汚れた襟付きシャツに、かなりサイズが大きいデニムのオーバーオール。
履き古した革の安全靴。これも大きさが合っていない。
腰に巻きつけた工具ベルトには、
体格に似合わぬ大きなスパナやレンチが吊り下げられている。
首に下げた年代物のゴーグル。くしゃくしゃの天然パーマの金髪。
くりくりと黒に輝く大きな双眸。
斜めにずらして被ったデニムのハンチング。その逆側には所々が欠けた大きなネズミの耳。
身長よりも長く細い、鞭のようなネズミの尻尾。所々に包帯が雑に巻き付けてある。
その顔立ちは純朴そうな少年そのものだが、
自慢げに腕組みをした態度は相当にふてぶてしい。
「エゼキエル、悪戯だったら間に合ってるぞ?」
「たまにはヒトを信じろよ! アノマリー・ハンティング・ゲームだろ?」
ネズミのエゼキエルは、くるくると指に癖毛を巻きつけながらゆっくりと歩み寄る。
「人間達の間で流行ってる噂。それに優勝すれば莫大な賞金が自分のものだとか」
「どの位の金額ですかにゃ?」
「さてね。あくまで噂だから。
でも、どっかの奴はその金で国一つを買い占めたとか聞いた」
エゼキエルは軽く跳び上がると、フェリエッタのすぐ隣のテーブルの上に行儀悪く腰掛ける。
テーブルにあった盛り合わせのチーズをつまみ食いしながら話を続ける。
「特別に選ばれた貴族やら成金やらの金持ちが、名も無い無人島に集まってやる狩猟大会。
世界中から腕利きの狩人を集めて、誰が一番殺すかに金持ちどもが億単位で賭け事をする」
「・・・何を狩るのですかにゃ?」
「アノマリー。訳して異常固体。つまりここにいるオレらみたいなの。おぉ、怖ぇ! ってね」
「つまり、殺人賭博ゲームですにゃあ」
「語弊があるぜルル。オレらは人間から見たら単純にバケモンだろ?
殺“人”にはならないから、奴らの中じゃあ一応合法なんだぜ」
「どんなルールで開催されてるのですかにゃ?」
「まず最初に、参加する数人のハンターどもに成金どもが賭けをする。
賭けの単位は十万ドル位から」
「にゃふふ、随分と金も時間も持て余した連中ですにゃ」
「次に奴らにとっ捕まった哀れな同族たちを乗せたコンテナが島の真ん中で開けられる。頭数は結構多いとか」
「恐らくどこかで拉致でもしてるのでしょうにゃあ」
「それで、一時間だけ猶予が与えられる。
要するにかくれんぼの、『もういいかい?』って奴だよ」
「時間が過ぎたら狩人が銃を担いで来る訳ですか」
「アタリ。でも銃だけじゃない。殺しに使う武器は銃でも罠でも何でもアリ。
素手で殴りに行くマッチョ野郎もいれば、バズーカをぶっ放すような軍隊野郎もいるらしいね」
「勝敗の決定はどうするのですにゃ?」
「最後の一人が殺された時点で、殺害数の多いハンター順に勝敗が決まる。
時間制限はナシ。全員くたばるまで何日間でもやる。
博打だから、賭け金に応じて配当が決まる。
腕のいいハンターにはスポンサーも付くらしいね。まさに殺しのスポーツさ。
ったく、人間って生物は一体何食ってたらあんなゲス揃いになるんだか・・・」
ゴキリ。
フェリエッタが首を鳴らす音に、エゼキエルがビクッと反応し、テーブルから飛び降りる。
確かな殺気に怯えるように、小さな彼は両手を振ってなだめようとする。
「まてまてまてまて! あくまでボロ雑誌とかゴミ新聞の与太話だよ!
本気にすんなって!」
「そうですにゃご主人様! 大体エゼックが本当の事言うはずありませんにゃ!」
「おいルルちょっと待てよ! 噂があるのは本当だぜ!」
「二重に信憑性がありませんにゃ!」
「だーもう! この白塗りシーツ猫! 黙って天日に干されてろよ!」
「にゃあっ! このトンカチネズミっ!
あんまり言うと皮むいて食べちゃいますにゃ!」
互いに鋭い牙を見せて、不毛な口喧嘩を始める猫とネズミ。
それに割り込むように、今まで俯いていたリヴァーネが突然顔を上げた。
「全て真実よ」
黙り込み、一斉に彼女を見る三人。彼女は何かを決したように、
猟師に撃たれた場所に巻いた包帯を解いて傷を見せた。
その華奢な左の二の腕にあったのは切り傷でも、血でも、かさぶたでもなく、
虫食いをした布のように穴が開いた皮膚と、
その穴の下からはみ出す、葡萄ジュースで紫色に染まった真綿だった。
驚きを隠せないエゼキエルとルル。表情を変えずにその傷口を見つめるフェリエッタ。
「君は・・・」
「そうよ」
はみ出した真綿を指で押し戻し、リヴァーネは涙をこらえるように俯いて、
震える声で言った。
「・・・剥製なのよ」
爪が食い込み、皮膚を破るほど握り締められた小さな拳。
「・・・奴らに殺されたのよ」
怒りと悔しさに、鋭い牙の生えた歯を強く噛み締める。
「・・・仲間も、親友も、私の妹も、私も、全部、全部」
思い切り両手の拳をテーブルに叩きつけて、声にならない音で叫ぶ。
「全部やつらの下らない賭け事の為に壊されたのよーーーっ!」
バイオリンの音も喧騒も、広い空間のざわめきが時を止めたように止まる。
聞こえるのは、テーブルに伏してすすり泣くリヴァーネの弱々しい声だけ。
彼女のガラスの両目から透明な涙が雨粒のように零れる。
何か声をかけようと、言葉を探すルル。言葉を失って俯くエゼキエル。
静かに遠い目をして、虚空を見つめるフェリエッタ。
その時、優しくリヴァーネの背中をさする小さな影があった。
そこにいたのは、ひまわりの花が飾られた帽子の、骸骨の少女だった。
深い紫色の、腰まであるさらさらの長い髪。
綺麗に切りそろえられた前髪に、半分隠れた真っ暗な眼孔。
少し驚いて泣き止むリヴァーネ。その頬に伝う涙を、肉の無い指がそっと拭う。
そして、その涙の雫を自分の頭蓋骨の眼孔に滴らせた。
白い頬骨の上を伝う一滴の涙。頭蓋骨に表情は無いが、
彼女も一緒に泣いているように見えた。
「・・・心まで壊されたなら、泣くことなんて出来ない。
そう言いたいんだよね、カトリーナ」
フェリエッタがぽつりと口を開く。カトリーナと呼ばれた骸骨の少女が静かに頷く。
カトリーナは震えるリヴァーネの両手を、細く硬い骨の手で優しく握る。
「彼女は喋れないし、表情も温度も無いけど、誰よりも優しくて強い心がある。
私など到底、太刀打ちできない」
リヴァーネはカトリーナの顔をじっと見つめる。
カトリーナは少し照れたように顔をそらす。
「でもちょっと恥ずかしがり屋でね。あまりじっと見つめ合うのは得意じゃない」
「・・・ありがと。ごめんなさいね、カトリーナさん」
カトリーナの周りの雰囲気がにっこりと微笑む。
彼女は静かに両手を離して、元の席へと戻る。
まだ少し嗚咽を上げているが、リヴァーネに少し明るい表情が戻る。
フェリエッタはそれを見ると静かに席を立ち、彼女の椅子の横へ歩む。
「・・・忘れたい記憶を語る時の、心臓を抉るような痛みは私も、皆もよく知っている。
その決断をしてくれて、ありがとう」
「いいのよ。それはこっちの台詞」
「君が彼らに復讐したい理由もよく分かった。
然るべき血の報復だ。私も協力させてほしい」
「大丈夫よ、私の復讐だから。あなたにこれ以上迷惑かけられないわ」
「いや、これは私自身の復讐でもあるんだ」
「あなたの?」
「私だけじゃない」
気が付くと、リヴァーネが座る椅子、フェリエッタのいる反対側に、
子猫ガンマンのシュラウドが立っていた。
その後ろには、顔と手に付いたホイップクリームを舐めながら、
小首を傾げるアリスもいる。
「・・・話は聞いてたぜ。アル兄ほど強くないけど、オレも力になる」
「イヒヒッ、わタしも手伝うワ!」
「き・・ 気持ちはありがたいけど、一体どうするつもりなの?」
「簡単な事ですにゃ」
いつの間にかフェリエッタの隣に立っているルルが、微笑みながらリヴァーネを見つめる。
「そのふざけたゲーム会場を突き止めて、大会の日に飛び入り参加するのですにゃ」
「で、でも、名も無い無人島なのよ? 一体どうやって場所を・・・」
「オレに任しなよ!」
目を離した隙に、シュラウドの横、テーブルの上にエゼキエルが腰掛けていた。
「へへ、実は前から作ってたスーパーコンピューターが完成したんだ!」
チーズをつまみながら身振り手振りを交えて自慢げに話す。
「部品は拾い物の組み合わせだけど、性能はそこらの最新のヤツよりずっと凄いぜ!」
「ですけど、それでどうやって島の場所を?」
「ネットさ! それもそこらのモンじゃない。
超強力な無線電波でこの国中の回線をどこでも自由に乗っ取れる。
セレブ野郎に成り代われば、あとはゴミ捨て場で今月のマンガ捜すよりずっと容易いぜ?」
「思いっきり何かの法律違反ですにゃ」
「バカ言うなよ! オレみたいなドブネズミを逮捕出来る法律は、世界中どこ探しても無いぜ!」
「にゃふふ、それなら完璧ですにゃあ!」
呆気に取られるリヴァーネの周りには、気付けばダイニングに居た全員が集まっていた。
豪華な椅子に座る彼女を中心に、大小様々な影が皆、同じ意思を持って立つ。
辺りを見回して、フェリエッタがにやりと猫のように笑う。
脇にあった質素な椅子を引き出して上に立ち、大きく手を開いて語り始める。
「諸君、聞いての通りだ。人間達は今日も何処かで我々の仲間を一方的に虐殺し、
悦に浸っている」
その場の全員がフェリエッタの演説に聞き入る。
「どれだけ我々を残酷に殺しても、人間は罪に問われない。
何故ならば、人間達は我々の存在を知りながら否定しているからだ」
その信念のある声と迫力は、まさにこの館の主人に相応しいものだった。
「人間の法は彼らを裁けない。
だが、罪無き者を虐げ、その命を賭け事に使う彼らは純真だろうか?」
「息をする価値もない、クソッタレのカス野郎さ!」
頭にボルトが刺さった少女が、怒りに満ちたトゲのある大声で叫ぶと、
右手を天高く上げて、“クソくらえ”と中指を突き立てる。
そうだ、その通りだと、全員が騒ぎ立てる。
「ならば我々が力を持ってして、この不条理を正してやろうではないか!」
歓声が広いダイニング中に響く。その中央に座るリヴァーネは、
まるで群集に見守られるお姫様のようだ。
「奴らの肥えた喉笛を切り裂き、欲望に歪んだ顔に鉛弾を撃ち込め!
蔓延る金の亡者を一匹残らず塵に帰せ!」
「そして、私は奴らに命を奪われた全員を土から救い出し、再び笑顔を取り戻す事を
この血に誓う!」
にわかに信じがたい言葉だが、彼の周りを囲む群集と、リヴァーネがその証人であった。
土の下からの復活。仲間や家族との再会。リヴァーネの脳裏に希望の光がかすかに煌く。
「以上だ! リヴァーネの復讐に、賛同する者は彼女に拍手を!」
洪水のような拍手の音。言い終えたフェリエッタも椅子を飛び降り、
拍手をしながらリヴァーネに歩み寄る。
伏せた顔を上げる彼女の目には、隠し切れない涙が浮かんでいる。
しかし、その涙は、先ほどと正反対の意味を持っていた。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
現世。山の陰に月が沈み、青白い空から朝日が昇り、
昔ながらの石造りの建物が立ち並ぶ街を明るく照らす。
シャルドリア国内でも有数の大都市、リバレット。人口は600万人ほど。
赤いレンガの壁が目立つ大きな集合住宅。
街並みの造りはイギリスのそれとよく似ている。
車が行き交い、路面電車が走り、
街の人々にとっていつもと変わらない一日の幕が上がる。
路面電車から降り、それぞれの職場へ向かう同じようなスーツを着た人の波。
黄色いスクールバスに乗り込む、制服の子供たち。
四車線の十字路を埋め尽くす、色とりどりの車の列。喧しいクラクションの音。
その中でひときわ目立つ、漆黒の塗装に赤い炎のペイントの、
自動車ほどもある巨大なアメリカンバイク。
ゴーグルを額にずらして渋滞の先を覗き込むのは、男勝りな赤髪の女刑事、アッシュだ。
車列に動く気配が無いのを確認すると、無骨なゴーグルをかけ直し、
ブレーキを握りこみアクセルをふかす。
甲高い音を立てながら後輪が空転する。
片足を着き、その場で巨大な車体をぐるりとアクセルターンさせ、
近くにあった細い路地へとバイクを走らせた。
突然の進入車両に、路地を占拠していた野良猫達が慌てて道をあける。
ゴミ箱の間ギリギリを通り抜け、隣の大通りに出る。
ほんの数十メートル横の通りには、
先ほどの渋滞がまるで嘘のように車一台も走っていない。
暫く道なりにバイクを走らせると、街の中心部に位置する警察署に到着した。
その裏口、警察車両用の駐車場入り口に入る。低く重いエンジン音が地下駐車場に響く。
流線型の最新型白バイが並ぶ横に、
倍ほども大きな年代物の黒い愛車を停め、ゴーグルをハンドルにかける。
木枠にガラスの扉を開ける。
アッシュが署内へ入った途端、その場の同僚達全員が拍手と歓声で彼女を迎え入れた。
「アッシュ! 話は聞いたよ! 今度は例のマフィア組織の構成員を挙げたんだって?」
すぐ脇の事務机でコーヒーを飲んでいた若い刑事が興奮気味に話しかける。
続いて新聞を読んでいた眼鏡の警官と、年配でふくよかな婦人警官が話に加わる。
「間違いなくロレンヅェッタ・ファミリーと繋がりがあるそうだ。それも三人全員」
「全く、同じ女として尊敬しちゃうよ!
一体どうやって大男を三人もとっちめたんだい?」
アッシュはタバコを銜え、保安官バッジの付いたオイルライターで火をつけると、
すぐ脇の柱にもたれかかって当たり前のように言う。
「ああいう奴らは銃は向けても、ビビって撃てないもんだ。
先に撃っちまえばこっちのもんさ」
「でも参ったよな。あいつら完全に腰が抜けてて、
店から引っ張り出すのに三人がかりだったんだ!」
「おまけにいい年して漏らしてたしなぁ。
全く、折角新しい車両が来たってのにシートが台無しさ!」
「・・・悪ぃ悪ぃ」
談笑するアッシュと同僚達。そこに、オフィスの扉を開けて初老の男性が現れた。
短い白髪と白い顎ひげ。年季の入った紺のスーツと、
シワだらけのベージュのビジネスコート。
彼を見た途端、全員が姿勢を正して敬礼する。アッシュも左手にタバコを持ち変え、
右手で静かに敬礼した。
男性は軽く頭を下げると、アッシュに歩み寄る。
「毎度ながら大手柄、お見事だ、アッシュ君」
「警官の一人として当然の事をしたまでです、所長」
「はは、わがままを言わせてもらえば、もう少し穏便に捜査して欲しいがね」
「死人を出さない努力は最大限にしてますよ」
「いい心構えだ。やはり君に任せて正解だな」
「フフッ、どうも」
初老の警察所長は、持っていたクリップボードを目を細めて見る。
焦点が合わないのか、コートのポケットから老眼鏡を出してもう一度凝視する。
彼の身長は170センチ前後だが、
180センチのアッシュの隣に並ぶとかなり小柄に見える。
「ところで・・・ 昨日の昼ごろ、病院に担ぎこまれた男二人が、
少々気になる証言をしている」
「昨日の昼?」
「ああ、話していなかったか。失礼」
所長はクリップボードをめくり、捜査資料を読み上げる。
「昨日の早朝、モアルテ山脈のふもとで外国人ハンター二人が背中を何者かに撃たれた」
「何者かに?」
「狩りの途中で、いきなり背後から散弾銃で銃撃されたらしい。
傷は、深くて数ミリ。二人とも運良く軽症だ」
「恐らく離れて撃ったな・・・ 被害者の体から弾丸は? 現場に薬莢か何か痕跡は?」
「それが、被害者二名の合わせて八十箇所以上の銃創の何れからも、
鉛も鉄の成分も検出できなかった」
「・・・妙だね」
「被害者が証言した現場を鑑識班が当たったが、薬莢はおろか、火薬の燃えカス一粒も出なかった」
「・・・被害者が嘘を言ってる可能性もあるな」
「先ほど退院した所で任意同行して、今は二人とも取調室にいる。話してみるかね?」
「是非とも。それから所長、二人の傷の詳しい鑑識結果を見られませんかねえ」
「分かった。私は鑑識の連中に話をつけてくる。二人は三階の第二取調室だ」
「どうも」
アッシュはエレベーターに向かう所長を見届けると、
随分と燃えて短くなったタバコの灰を近くの灰皿に落として、
エレベーターの隣にある細い階段を銜えタバコで上る。
途中で行き交う数人の同僚と軽く挨拶を交わしながら、
三階、第二取調室の扉をノックする。
中から扉を開けて顔を出したのは、背の高いアッシュと同じくらいの身長の、
体格の良い刑事だった。
黒のスーツに、赤のストライプのネクタイ。黒の角刈りに、日焼けした厳つい顔つき。
いかにも頼りになりそうな、肩幅の広い筋骨隆々の刑事だ。
「アッシュか。丁度良かった」
「デービス、何でお前がいるんだよ?」
「いつもの張り込みに出たんだが、こいつらのお迎えを頼まれてな」
「・・・何か聞き出せたか?」
「それが手を焼いててな・・・」
「ったく、バカコングは引っ込んでな」
「・・・ハイハイ、分かった分かった」
彼は持っていた取調べの資料をアッシュに手渡すと、両手を軽く上げ、
“お好きにどうぞ”のジェスチャーをして、
懐から出したガムを噛みつつ階段の方へと消える。
それを見届けて、アッシュが取調室に入る。
そこには椅子の上で痛みに背中を丸める小太りの男と、
同じように背中を丸めて顔をしかめるひょろ長の眼鏡の男がいた。
どちらも同じ、標準的なサイズのシャツをありあわせで着ているが、
小太りの男のシャツはボタンが弾け飛びそうなほど張り詰めていて、
ひょろ長の男は丈が足りずに七分袖になっている。
二人をひと目見て、アッシュは眉間に力を入れる。
その気迫に押されて、二人の男はビクリと姿勢を正す。
オドオドした態度で先に口を開いたのは、瓶底のような眼鏡の方だった。
「や、やあ。どうも。その、見たところ、け、刑事さんですよね?」
「ふん、パッと見てアバズレの間違いだろ?」
「い、いや、そういうつもりでは、その・・・」
「嘘はやめときな」
開口一番で吐いた小さな嘘を一瞬で見破られ、
嘘を吐くのが仕事の悪徳弁護士が完全に尻込みする。
アッシュは溜息をつくように煙を吐き、
取調室のドアの真横に置かれた灰皿でタバコを消した。
資料に目を通す。小太りの男がオーティス。社長。眼鏡の男がニルソン。弁護士。
名前と職業だけ覚え、二人の正面、テーブル越しの椅子に深く座って取り調べを始める。
「撃たれた時の状況をもう一度説明してほしい」
アッシュが言うと、オーティスはニルソンを睨みつけて話をするよう促す。
かなり腰が引けているニルソンに、
さらにオーティスが小声で「普段通りにやれ」と囁く。
戦意を喪失しているニルソンだが、観念し、
普段通りに考え付いた嘘を仕方なく語り始める。
「ええと、あれは昨日の朝でした。
僕たちは鹿狩りのために、バスでふもとまで行って入山したんです」
アッシュは資料とニルソンの顔を交互に見つめる。
「道路脇から五キロほど森を歩いた所で、僕達は鹿を見つけて撃ちました」
「鹿の種類はなんだった?」
黒縁の瓶底メガネの奥で、
ニルソンの瞳が不自然に動き回るのをアッシュは見逃さなかった。
薄い頭頂部を隠すようにした七三分けの額に、じわりと汗が滲む。
「い、今は鹿の種類など関係のない話でしょう!」
「フフ、悪い悪い。続けてくれよ」
「ええと、それから僕達は、鹿が倒れたのを見て、獲物を捕ろうと倒れた鹿に近づいたんです」
嘘を突き通せたと、ニルソンはどこか勝ち誇ったような目でオーティスを睨む。
猟犬は? そう聞こうとしたアッシュだが、何か裏があると見込んで台詞を飲み込む。
「その時でした。突然背後から撃たれたんです」
「犯人の顔は覚えてるか?」
「いえ、覆面か何かで顔を覆っていて、全く覚えていません」
その言葉を聞いて、アッシュはニルソンの話の矛盾を一つ見抜いた。
散弾銃で背中を何発も撃たれたのに、
砂利道で派手に転んだ程度の怪我しかしていない。
一般的な散弾銃で発射された散弾が標的を確実に撃ち抜き、
ズタズタに破壊できる距離は五十メートル程。
その距離を過ぎた弾丸の粒は銃本来の威力を失い、やがては地面に落下してしまう。
散弾が完全に落下するまでの距離は銃と弾薬にもよるが、
一般的な物の平均でおよそ二百メートル程。
傷の程度から考えて、犯人が彼らを銃撃した距離は少なくとも百五十メートル以上。
百五十メートルも先の犯人が、
顔に覆面をしているかどうかなど判別できるだろうか?
それも、朝霧が覆う、まだ薄暗い森の中で。
しかし、まだ決定的な証言はない。彼女は黙って話の続きを聞く。
「それで、僕達は必死に逃げました。
持ってきた銃と狩猟許可証はその時に落としてしまったんです」
「その件については安心しておきな」
「助かります。そして、どうにか下山して、
たまたま通りかかった宅配のバンに助けを求めました」
「バンの運転手の証言もあるな。
確かに配達の帰り道、お前達二人を病院へ運んだとある」
アッシュが資料にあった証言のリストから読み上げる。
証言という言葉に、勝利を確信したような顔で目を合わせる二人。
その雰囲気をかき消すように、突然部屋にノックの音が響く。アッシュが招き入れると、
そこには先ほどまで二人の取調べをしていた体格の良い刑事、
デービスが青いファイルを持っていた。
アッシュは立ち上がり、二人の参考人から離れてデービスの前に立つ。
「アッシュ、所長に言われてこいつを持ってきたぞ」
「おお、鑑識の資料だ。サンキュ」
「何か分かったか?」
「大体話の検討はついた」
「流石だな。向こうの喫煙所にいるから、何かあれば呼んでくれ」
「・・・禁煙中じゃなかったのかよ?」
「心配するな、目当ては新聞だ。クロスワード・パズルをやる」
デービスはファイルを手渡し、階段とは逆方向の喫煙室に向かう。
アッシュは扉を閉め、ページをめくり、目当ての記述を探す。
二人が証言した現場の写真。バス停から十キロ付近には何の痕跡も確認されていない。
彼らを乗せた、まだ若い宅配バンの運転手の顔写真。まるで殴られたような、
新しい痣があるのが気になる。
病院で撮影された、撃たれた二人の傷口の写真。これだ。アッシュは目を凝らし、
ある物体を探す。
かなり大判の、グロテスクな写真二枚。
ふと、贅肉だらけで締りのない背中を写した写真の傷の一つに、
不自然に光を反射する半透明の結晶を見つける。
やはりあった。アッシュはさらに資料を読み進める。
傷口から採取した幾つかのサンプルを科学的に分析した成分表。
確かに鉛の欄も、金属の欄にも数値はない。
毒物、細菌等の欄も全てが誤差の範囲。しかし、一つだけ異常に高い数値を見つける。『塩分』だ。
「・・・昔ながらの、塩の弾か。ふっ、まるでワイルド・ウエストだな」
何かを確信したように、笑みをこぼすアッシュ。
鉛球の代わりに岩塩を込めるという行為は、
先込め式の銃で戦争をしていた十六世紀から行われていたもので、
特に十九世紀の西部開拓時代に好んで行われた方法だ。
市販の散弾銃用弾薬の先端を開き、
鉛球を取り出してから一般的な食用の岩塩を詰めただけの簡単なもの。
主に農作物を狙う畑泥棒や暴徒化した群集を追い払う時に使用され、
至近距離で撃たない限り致死率は低い。
結果として万が一殺害しても、
正当防衛上の事故として殺意は認められない場合が多かった。
伝統として、数百年経った現在でも減刑の対象にする国は多い。
このシャルドリアを含めてだ。
つまり、銃撃した犯人は古い銃をよく知る人物で、
この二人を殺害する意図は初めからなかった。
敷地に侵入され、それを追い払っただけだ。アッシュの脳裏にとある人物が浮かぶ。
「その、なんだあ、俺らはもう帰ってもいいですかねえ?
会社の役員会議をやらなあならんので」
「話せる事は以上です。任意同行なら、
これ以上僕達を拘束する権限は警察にないはずです」
小太りの男、オーティスが初めて口を開く。ニルソンもそれに付け加える。
アッシュはちらりと二人の顔を見る。二人とも、何かをやり遂げたような顔だ。
「デービス!」
席を立ち、扉を開けてアッシュは喫煙所のデービスを大声で呼ぶ。
新聞を畳んでデービスが駆けつける。扉の前に、大柄な刑事の男女が揃う。
「・・・資料と君ら二人の供述で、大体犯人の検討はついた。取調べは以上で終了だ」
不適な笑みをこぼし、今までの恐縮した態度から一転して、ふんぞり返る二人。
椅子から同時に立ち上がり、肩で威張りながら部屋を出ようとする。
二人の態度を見て、アッシュがにやりと笑い、デービスに目で合図をする。
ドアにオーティスが手をかけた瞬間、デービスが彼の肩を掴んで引き止めた。
「おい! まだ何かあるってんなら、俺の秘書に電話でもしろ! 暇じゃねえんだ!」
「任意聴取の範囲を超えた不当な捜査だ! 裁判を起こすぞ!」
先ほどとは正反対の傲慢無礼な態度。完全に自分達の無罪を確信している。
そこで、ここぞとばかりにアッシュが二人を絶望へ突き落とす。
「・・・よし、九時五四分、お前達二人を狩猟法違反で逮捕する」
逮捕。その呪文を聞いた二人の額から脂汗が吹きだす。
「た、たた、逮捕? お、俺らは別に何もしてねえと言っただろうが!」
「き、供述内容を確認するべきだ! 我々は無罪だ! 無罪である!」
気が動転し、言葉もあやふやになる二人。アッシュは鼻で笑うと、
一言だけトドメの台詞を吐いた。
「あそこの国道から十キロ地点まではな、禁猟区なんだよ! アホめ!」
遭難、誤射、襲撃、逃亡。あまりに急激で、現実離れした展開に飲まれ、
彼らは忘れていた。自分達がこの国へ来た本来の目的を。
シャルドリアン・フォックスを密猟する。
そのために、わざわざ現地のガイドも付けずに危険な山へと足を踏み入れた。
誰にも見つかってはならないはずだった。
狐の少女にも、白い女性にも、館の主人にも、宅配の青年にも。
それがどうした事か。今や、警察署の取調室で、
自分達の密猟の一部始終を事細かに語っているではないか。
全てが色褪せていくように感じるニルソンは、もう一つ、自らの失策に気付く。
―道路脇から五キロほど森を歩いた所で、僕達は鹿を見つけて撃ちました
ニルソンが事務所を構える米国の州で禁猟区といえば、
一部の保護区と道路沿い二キロのみ。
普段通りにやれ。オーティスの言葉通りにやった。
米国であれば、これで減刑は間違いなしだった。
しかしどうだ。ここは遥か離れたヨーロッパの小国だ。郷に入っては、郷に従うのみ。
自分達の吐いた、完璧なはずの嘘が仇になる。悪徳弁護士が自らの諸刃に倒れる。
血の気の引いた顔で脱力し、その場にへたり込む二人だった。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
紫煙の朝霧が晴れ、白い霧へと色を変える死者の国。
午後三時。おやつ時の屋敷。よく晴れた青空と、吹き抜ける爽やかな微風。
木々が風でざわめく音と小鳥のさえずり。
人間の知らない者達が住む世界には自然の音だけがあり、
喧騒とクラクション、
機械の音と人の声が全てを支配する現世の街とはまさに正反対だ。
四方をぐるりと洋館が囲む広大な中庭。
みずみずしい緑の芝生が一面を覆い、所々には色とりどりの花が咲いている。
テラスから続く白い石畳の先には、玄関前の物よりも一回り小さく彫刻の少ない噴水。
半球状に噴き上がる水は、眩い太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
大きな公園にも匹敵する広さと、黒と灰色を基調にした、
高級ホテルの庭のように美しく整えられたオブジェ。
丁寧に剪定された、形も種類も様々な庭木。その間を駆け抜ける、一人の少女の影。
「フェル! フェル! 今日はどこ行ったのーっ!」
芝生を踏みしめる軽い足音。庭木の間を縫うように走り抜ける。
装飾のないシンプルな、淡い桜色をした夏物のワンピースドレスと、紫色のパンプス。
膨らんだ左右のポケットには、目一杯にお菓子が詰め込まれている。
薄い紫色の、かなり内側に巻いた癖の強いボブヘアー。
濃い紫色の、丸みを帯びた子猫の耳。尻尾は生えていない。
大きな瞳の白目に当たる部分は深い紫色で、瞳孔は夕焼けのように真っ赤。
袖口と裾から除く細い手足は、まるで死んだばかりのような青白さだ。
ポケットから飛び出した大きな棒つきキャンディを手で押さえつけ、
ひらりと灰色のレンガで囲まれた花壇を飛び越える。
反対側の花壇の縁に両足で着地すると、疲れた様子で腰に両手を当てて溜息をつく。
「全く。あの昼寝バカ。毎回寝る場所変えるんだから・・・」
うんざりするような顔をして首を横に振り、
ポケットからイチゴ味の飴玉を一つ取り出して頬張る。
屋敷の壁沿いにどこまでも続くような、長い花壇の縁を綱渡りのように歩いて行く。
心地よい風が吹きぬけ、ワンピースの裾を揺らす。
両手を広げてバランスを取りながら早足で歩む。
「大体エゼックも、こんな広い屋敷中を一人で探す私の身にもなってよね!」
愚痴をこぼしつつ、花壇の縁を進む。
すると、花壇の遥か向こうに鮮やかな赤と緑の影が見えた。
影は緩い速度でナメクジのように蠢きながら、
花壇の縁沿いをなぞる様にじわじわ進んでいく。
「あれは・・・ ねーえ! ロゼッター!」
花壇の縁から芝生の上に降り、時折吹く風を追い越す勢いで影に走りよる。
ロゼッタと呼ばれた頭一つ分背の高い赤緑の影は、
キュラキュラと錆びた車輪の音を立てながら、その場で紫猫の少女を向いた。
「あら、御機嫌よう。菜の花のように活発で、
ラベンダーのように紫色をした貴女の名前は確か・・・」
「ヘムロック!」
「おほほっ。失礼あそばせ。ヘムロックは樹木からの名前ですわね。
その花言葉は死をも惜しまぬ心・・・」
「あーもう、いちいち花言葉絡めなくていいから・・・」
透き通った深紅の左目。まるでフランス人形のように、完璧に整った顔。
だが、会話をしている時も、笑っている時もその完璧な表情はピクリとも動かない。
目玉の嵌っていない、右目の眼孔からは真っ赤なバラの花が目玉の代わりに生えている。
まさに貴婦人といった装いの、つばの広い大きな帽子。ボリュームのある、
緑色のロングヘアー。
それらをよく見れば、右目の部分と同じ巨大なバラの花と、
所々にトゲの生えた植物のツタ。
バラの花弁と同じ色調の真っ赤なロココ調ドレス。
エンデューラの物と似た大きなスカート。
その膨らんだ短い袖から伸びるのは、
一見すると人間の腕に見える、トゲの付いた茶色いツタ。
ドレスの襟と顔の間に覗く、首にあたる部分もよく見れば、
茶色いツタが複雑に絡みあった集合体だ。
文字通り、彼女はバラの花。
ドレスを着た巨大なバラの花が、フランス人形の頭部を付けて人間に擬態している。
人間でなくとも、その優雅で上品な立ち振る舞いと言葉遣いは正真正銘、
気品溢れる貴婦人である。
「ところでさ、フェリエッタ見なかった? 多分またそこら辺で昼寝してると思うんだけど」
紫猫の少女ヘムロックが、薔薇の貴婦人ロゼッタに、
身振り手振りで館の主人の所在を訊ねる。
ロゼッタは腕部のツタに巻きつけたジョウロで花壇の花達に水を与えながら、
もう一方のツタを頬にちょこんと当てて、何かを考える動作をする。
「クロユリのような深い闇色のフェリエッタ様でしたら確か、
ダイニング脇のテラスでマツバギクの様にのんびりと羽根を休められておりますわ」
「あなたの例えって専門的すぎて分かりづらいわね・・・」
「うふふ、マツバギクの花言葉はリラックス。クロユリの花言葉は・・・」
「説明しなくていいから! 大丈夫よ!
えーと、テラスって事はここから・・・」
「東に向かって十五分ほど歩いた所ですわ」
「そう? わたしの場合は三分かからないけどね」
「人間のような二本の足が羨ましいですわ。シクラメンの様に嫉妬してしまいそうな程。
そう、足といえば、一つ手を貸していただきたい事がございまして・・・」
そう言うと、ロゼッタはギイギイと軋んだ音を響かせながら、
非常に緩い速度でヘムロックににじり寄る。
大きなドレスの裾から見える、腕部の物と同じような二本の太いツタ。
歩行するように交互にツタを動かして移動している。
「えーと、足をどうかしたの?」
「実は、私が乗っている手押し車の車輪が錆びてしまいまして・・・」
「そりゃ、いっつもこんなところで水かけてたら錆びるわよ。直すからちょっと見せて」
「助かりますわ」
ロゼッタは静かに頷くと、ジョウロを花壇の縁に置いて、
大きなバルーンスカートの縁を両手のツタでたくし上げる。
ヘムロックは潜り込むように中を覗き込む。かなり古びた、鉄製の庭園作業用一輪車。
その深底の荷台には土が盛られ、複雑に絡み合ったツタとバラの茎が植わっている。
簡素な鉄パイプで組まれた車軸受けと、
同じく鉄パイプをU字に曲げて作られた二本の脚部。
所々には雑草や土が絡み付いて、
細かい蜘蛛の巣や種類の分からない様々な虫達が蠢いている。
ゴムタイヤの部分を見る。ロゼッタの言うとおり、
車輪の根元は所々が赤く錆び付いていた。
よく見れば、車軸を止める六角形のナットが一つ足りない。
錆びたまま動き回るうちに引っかかり、どこかで抜け落ちてしまったようだ。
ヘムロックは顔を上げると、自分では車輪の具合を確認出来ないロゼッタに報告する。
「あー、部品がどっか行っちゃってるみたいねー。
今フェル見つけたらエゼックの所に行くから、帰りにあいつ連れてくるわよ」
「あ、あの・・・ エゼキエル様に、私の・・・ その、車輪を?」
「あれ、何か問題でもあった?」
「な、何と言いますか、その、シクラメンと言いますか、シャクヤクと言いますか・・・」
ロゼッタは目線を逸らし、俯いて両手のツタを胸に当て、
そわそわと何か言いたげにしている。
樹脂製のフランス人形の顔面は微笑を浮かべたまま動かないが、
その言動の示すものは明らかだ。
「あー、そっか! 恥ずかしいんでしょ!」
「え、ええ。修理して頂けるのはダリアとカンパニュラ程にありがたいのですが、その・・・」
「女の子だもんねー。仕方ないわよ。
それにエゼックにそういうの見せたら真っ先に変な機械付けそうだし」
「エゼキエル様はまるでセンリョウのような才能と、
ムラサキツユクサのような知識をお持ちですものね」
「その花やたら長い名前ね・・・ じゃあついでにエゼックに部品貰って来るから、しばらく待ってて!」
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんわ」
ヘムロックは軽く手を振ると、
四方を囲う屋根の上に立つ大きな十字架が付いた塔の方へと走り去る。
ロゼッタはスカートをつまみ上げ、丁寧にお辞儀をして彼女を見送ると、
ジョウロを腕に巻きつけて水やりの続きを始めた。
「えーっと、何しに来たんだっけ・・・」
五メートルおきで庭に置かれた木製のベンチの上を飛び石を伝うように跳びながら、
ヘムロックはふと考える。
ベンチが途切れ、近くにあった火の燈されていないガス灯の上に高く跳び、
片足で着地する。
ゆらゆらと揺れるガス灯の上で、
今度はポケットから溶けかけのチョコレートを取り出し、銀紙を剥いて食べる。
遠目に見える、木板で作られた広いテラス。点在する白のテーブルと椅子。
風だけが吹きぬけ、誰もいないテラス。
その椅子の中に一つだけ、真っ黒な何かが腰掛けている。
「そうだ! あの昼寝バカ!」
チョコレートを銀紙に包み直し、ガス燈から飛び降り、影に向かって全力疾走する。
向かいのベンチをハードルのように跳び越え、
背の低い木を潜り抜け、まっすぐにひた走る。
固い足音を立てて白い石畳の上を走りぬけ、
テラスの手すりに手をついて跳び箱のように跳び越える。
そのまま勢いをつけて、フェリエッタの座るテーブルに思い切り両手を着いて停止した。
ドンと大きな音が響き、テーブルに顔を伏せて爆睡していたフェリエッタが大きく振動する。
「フェルッ! 起きなさいーっ!」
「・・・」
あれだけの衝撃と絶叫を受けても、フェリエッタは全く起きる気配が無い。
耳をぴくぴくと動かすのみ。
呆れ返るヘムロック。ふと、テーブルに目をやると、
黒光りする一挺の拳銃と、その弾倉が無造作に放られていた。
コルト45オート。全長二十センチ程の、細身だが鉄の塊のように重厚感のある、
深い黒色の自動式拳銃。一面に細い金色の彫刻が彫られている。
ローズウッドと呼ばれる、濃い赤色をした木製のグリップ。
その中央にはスペードを逆にしたような、
真鍮製の小さなメダルが嵌っている。交差した先込め式の古式短銃に、
フルール・ド・リスと呼ばれるユリの紋章を重ね、
さらにその上に、トゲが付いた二つの十字架を銜える猫の頭蓋骨がデザインされている、
何とも悪趣味なものだ。
この紋章はこの屋敷の所々に見られ、
フェリエッタがいつも首に下げている、首輪のアクセサリーもこれと同じ図形だ。
銃を眺めてから、フェリエッタに視線を戻す。
腕を枕にして顔をテーブルに伏せ、尻尾を静かに揺らして寝ている。
「今ならフェルに勝てるかも・・・」
邪悪な害意が目覚め、ヘムロックの紫色の瞳が妖しく光る。
フェリエッタを起こさないように、
彼の前方三十センチ程手前に放られている拳銃に手を伸ばす。
銃に手をかけた瞬間、フェリエッタの耳が動く。
じっと彼を見つめて、そのままぴたりと制止するヘムロック。
フェリエッタがもぞもぞと寝返りを打つ。随分心地よさそうな顔が見える。
動きが止まり、また静かに寝息を立て始める。
その隙を見て、そっと銃をテーブルから垂直に持ち上げる。
続いて同じように、横にある弾倉も盗む。
忍び足でフェリエッタが座る椅子の真後ろに移動し、音を立てぬよう、
慎重に拳銃のグリップの下へと弾倉を装填する。
カチッ。独特の軽い金属音。フェリエッタに反応は無い。
続いて銃の上部、スライド部分を全身の力をこめて静かに引く。
カチリ。最後まで引ききったのを確認してから、
ゆっくりとスライドを戻し、発射準備をする。
「にししっ、今日は弾もあるし、銃身も抜かれてないわ。今に見てなさいよ・・・」
小声で笑うヘムロック。そして悪意に満ちた顔をして、
両手で銃をしっかりと握りこみ、フェリエッタのすぐ足元に向け引き金を引き絞った。
「・・・あれ?」
確かに引き金を引いたのに、弾が出ないどころか、僅かな手ごたえすら無い。
キョトンとした顔で銃を眺め、もう一度スライドを引く。
空の薬莢を排出する為の排莢口から、未使用の弾が飛び出す。
コトン。木板に落ちた弾が音を立てる。
「んん、その銃は撃てないぞ・・・」
突然、フェリエッタが声を出す。驚いて腰を引くヘムロック。
彼は左手を上げて大きく背伸びをし、ぶるぶると尻尾と頭を左右に振る。
己の敗北を知ったヘムロックは、足を大きく踏み鳴らしながら、
悔しそうな顔をして、フェリエッタの向かいのテーブルの上に不発の銃を置き、両手をつく。
「もう! 今日こそ勝てたと思ったのに!」
「また運が無かったね。今日もその銃には、一つだけ部品が足りない」
フェリエッタは王子のような漆黒のズボンのポケットから、小さなバネを取り出して見せる。
「・・・何よそれ?」
「撃鉄に力を与えるバネ。グリップの後ろに入ってる。外見でも重さでも分からないが、これが無いと撃てない」
「また銃に細工するなんて! この卑怯者っ!」
「はは、君には敵わないよ。所で、今日は何で、私を起こしに来たんだい?」
「え? えーっと、何だっけ・・・」
館の主人を負かす為の行き過ぎたイタズラに夢中で、
当初の目的をすっかり忘れているヘムロック。
大きく欠伸をして、首を左右に曲げてコキコキと音を立てるフェリエッタ。
「あ! そうよ! エゼックがルルとあなたを呼んでるのよ!」
「もしかして、例の島の場所が分かった?」
「島じゃないけど、かなりの有力情報らしいわ!」
「早速進展があったね。よし、ルルはキッチンでお菓子を作ってるから、
ついでに寄っていこう」
「・・・ところでフェル、もしあの銃が普通に撃てたら、私あなたに勝てた?」
「どうかな?」
フェリエッタは椅子から立ち上がると、今までテーブルの下に隠していた右手を見せる。
その手には、テーブルの上の物と全く同じ拳銃が、撃鉄を起こした状態で握られていた。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
「ねえルル、どうやったらフェルを倒せると思う?」
「んー、難しい質問ですにゃあ」
屋敷の十一階、両側に等間隔でドアが立ち並ぶ、
白と黒を基調にした長い廊下を三人の猫が歩く。
先導するのは悪戯猫のヘムロック。未だ欠伸をしているフェリエッタと、
片手に布をかぶせた柳のバスケットを持つルルがその後に続く。
「銃さえ持ってなければ、ご主人様はただの猫同然ですにゃ」
「じゃあ、銃を持ってないところを襲えば、わたしでもフェルに勝てる?」
「そう簡単にはいきません。シャワーの時も銃を持ってますし、銃を持ってないご主人様はものすごく逃げ足が速いのですにゃ」
「だったら、上手くどこかの小部屋に閉じ込めて火をつけたら?」
「それよりも、通り道に罠を仕掛ける方がいいと思いますにゃ。
例えば、落とし穴の中に木の杭を立てておくとか、水溜りに電線を引いておくとか、
おもりを付けた包丁をドアの上に仕込んでおくとか・・・」
「・・・二人とも、何で私を確実に殺そうとするんだい?」
「にゃふふ、何故でしょうにゃあ?」
ルルは満面の笑みで、
白銀色の髪を揺らして小首を傾げながら、フェリエッタに優しく微笑む。
フェリエッタは笑みを返しながら、
肩をすくめて“サッパリ分からない”のジェスチャーをする。
「着いたわ。ここよ!」
他愛も無い会話をしている内に、周りの部屋よりも大きな両開き扉の前に到着した。
周りのドアはどれも落ち着いた風合いの木製で、
時折名札や部屋番号が付いているだけだが、
目の前にある大きな木のドアには、
緑のペンキの下手な字で『Deus EX Machina』とベタ塗りされていた。
デウス・エクス・マキナ。ギリシャ語で『機械仕掛けの神様』という意味だ。
周りの壁にドリルで強引に開けられた歪な穴からは、
得体の知れないケーブルが何本も延びている。
ドアを引いて、中に足を踏み入れる。
瞬間、中からドライヤーのような熱風が吹き付ける。
高圧電流の流れる甲高い音が耳を劈き、
一歩進むたびに、床を埋め尽くす色とりどりの配線が足に絡みつく。
部屋中に置かれた高い棚。それに設置された、
訳の分からない機械の山。ピコピコと喧しい電子音が鳴り続ける。
強烈な騒音に、頭を抑えるようにして大きな耳を塞ぐルル。
周りを見回しながら、暑苦しそうに手で仰ぐフェリエッタ。
「エゼック! エゼック! 二人を連れて来たわーっ!」
周りの騒音にかき消されまいと、大声を張り上げてエゼキエルを呼ぶヘムロック。
剥き出しの基盤や配線でぐちゃぐちゃの薄暗い室内。小さな彼の姿はどこにも見えない。
「よくこんな大掛かりな機械を作れるなぁ」
「いつボヤが起きてもおかしくないですにゃ・・・」
両手で顔を仰ぎながらエゼキエルを探すフェリエッタと、出来れば早く部屋から出たいルル。
その時、二人がいるすぐ脇の棚の上から、包帯を巻いた細い尻尾が垂れ下がってきた。
真下にいるフェリエッタ達に気付かずに、
イヤフォンで音楽を聴きながら作業するエゼキエルの尻尾だ。
ルルがにやりと不敵な笑みを浮かべる。
フェリエッタが顔を合わせると、彼女は口元に人差し指を当てて悪戯っぽくウィンクする。
ネズミの彼は音楽に合わせて頭を上下に振りながら、
小さな体を生かして細い棚の上に乗り、天井に怪しい基盤をネジ止めしている。
ルルは梯子を上るように棚に足を掛け、その上に音も無く忍び寄り、
エゼキエルの真後ろにぴたりと張り付く。
何も言わず、傍観するフェリエッタとヘムロック。
ふと、エゼキエルが不意に後ろを振り向く。瞬間。
「ヴミャアアッ!」
「ふぎゃああああっ!」
大きな目を見開き、鋭い牙を剥いて、得意の脅かし顔を至近距離でお見舞いするルル。
彼女の美しい白銀の髪と白い肌は、不意に見れば幽霊のそれらと非常によく似ている。
吃驚し、二メートル程の棚から弾き飛ばされたように仰向けで落下するエゼキエル。
真下にいたフェリエッタが完璧なタイミングで、
両手で抱えるようにしてネズミの彼を受け止める。
「やあエゼキエル。有力情報らしいね。是非教えて欲しい」
腰が抜け、幼げな大きな黒い目を何度もパチクリさせるエゼキエル。
何とか状況を把握して、大きなネズミの左耳深くに入れたイヤフォンを抜き取る。
「いっ・・ いきなり脅かすんじゃねーっ! 寿命が縮むだろーっ!」
「にゃははっ、やっぱりエゼキエルさんの驚き方が、一番私好みですにゃ!」
「黙れこのバカお化けシーツ猫ーっ! バカエッタも早く下ろせーっ!」
「おっと、失礼」
フェリエッタが自分の身長の半分程の背丈のエゼキエルをそっと腕から下ろす。
かなり怒った様子で床に落ちたハンチングを拾う。
ずっと帽子を被っている右側の頭には根元から耳がない。
いつものように右側斜めに帽子を被り直し、
ずれたオーバーオールの肩紐を直して腕を組む。
その様子を見ていたヘムロックは腹を抱えて大笑いしている。
「ヘミーまで笑うなぁーっ!」
「だって! だって! ひゃははははっ!」
「・・・ほらフェリエッタ! こっちだ!」
エゼキエルは自分より少し背の高い、まだ笑い転げているヘムロックの手を強引に引いて、
照れ隠しをするようにフェリエッタ達を入り組んだ部屋の奥へと足早に案内する。
ジグザグに並んだ狭い棚の間を潜り抜けた先には、
木板に釘を打って作った、手作りの大きな机。
上には六台のブラウン管モニタが並んでいる。
どのモニタもかなり大きく古いもので、年代もサイズもバラバラ。
その手前には錆び付いたタイプライターを改造したキーボードが三つ置かれていた。
スパイ映画の司令室さながらだが、現代の洗練されたコンピューターと比べて、
それらはお世辞にもスマートではない。
「まさかこんなに大掛かりだとは。自家発電機を丸々一つ使う理由も頷けるね」
「へへっ、この大部屋全体が一つのコンピューターなのさ!」
「一体どこからこんな部品を集めて来るのですにゃ?」
「決まってるだろ、ふもとの集積場だよ! あそこで手に入らない部品なんかないぜ?」
「ゴミ捨て場だろう? こんなに壊れてない物があるのかい?」
「最近の人間どもと来たら、ちょっと配線いかれた程度で新しい奴に買い換えるからね。
オレから言わせてもらえば新品同様。動かない機械の方が少ない位だぜ?」
「この部屋の暑さはどうにかならないんですかにゃ?」
「一応元々あった暖炉の煙突を排熱孔にしたり、窓に扇風機付けたりして対策はしたんだけどね。
熱気でメカが壊れないならもうそれでいいやと思って」
エゼキエルの言う通り、
部屋の奥にある石造りの暖炉の口には巨大な業務用の扇風機が、
部屋の窓という窓は中央が丸く切り取られた木板で塞がれ、
それぞれの中央に扇風機がはまっている。
ゴシック建築の古風な部屋は、
廃品を集めた機械と完全に調和して異質な空間へと変貌している。
「それで、有力情報というのは?」
「ああ悪ぃ。ちょっと待ってな!」
エゼキエルは並んだ画面の前、背もたれのない簡素な手作りの椅子に座ると、
並んだキーボードをカタカタと操作し始める。
何時になく真剣な眼差し。ルルは持ってきたバスケットをそっと机の端に置き、
覆っている布を取る。
「さっき焼いたクッキーですにゃ。良かったら食べて下さい」
「おお、サンキュー!」
「やったぁ、ルルのクッキー美味しいのよね!」
クッキーを口に銜えながら錆びたキーボードを叩き続けるエゼキエルと、
両手にクッキーを持ち夢中で食べるヘムロック。作ったルル自身もクッキーを齧る。
「あった。見てよ、これ」
エゼキエルは、六つのブラウン管モニタに別々のウェブサイトを表示する。
左上の画面には、世間の噂話を集めたオカルト系タブロイド誌のサイト。
『未確認生物ハンティング大会、実在か?』という見出しで、
いかにも信憑性の薄い白黒の荒い画像や、
関係者の証言という内容の胡散臭い記事で埋め尽くされている。
隣の画面には、『404 Not Found』とだけ表示されたサイト。
このアドレスのサイトは既に削除されていて、存在しないというエラーメッセージだ。
その隣の三つは、他愛も無い罵詈雑言で満ちた掲示板サイト。
暴力的で低俗な言葉か一面に並んでいる。
全てが『アノマリー・ハンティング・ゲーム』の真偽に迫ろうとする議題の掲示板だ。
殆どの投稿者が互いに罵り合い、議題に関する情報は全くと言っていいほど無い。
そして右下、六つ目の画面には真っ白な背景に、
黒で『ジェイコブソン・スター・コープ』と社名が表示されたサイト。
その下には小さく番号の羅列があり、その二つの文字列以外には何の情報もない。
白紙に浮かぶ僅か二行の文字列からは、
何の会社なのかも、何を示す番号なのかも、全く推測できない。
「見た所、有力情報とは思えないね・・・」
「森に落ちたドングリ程の目印にもなりませんにゃ」
「へっ。そう言うと思ってたぜ。バカネコお二人に、
今からオレがわかりやすーく解説してやるよ」
水を得た魚のように、ここぞとばかりに偉ぶる小さなエゼキエル。
二人は顔を見合わせながら、何も言わずに彼の話に大きな耳を傾ける。
「まずはこのオカルトのタブロイドサイト。この話自体はいつものように全くのでっち上げ。
このサイト自体も寒いおふざけ。でも、このサイトのデータがあるサーバを割り出すと・・・」
タブロイド誌のサイトの画面が、
黒背景に緑色の文字で内部データを表示した難解な物に変わる。
コンピューターにそう詳しくないフェリエッタとルルには、何のことだか全く理解できない。
「ここんとこ。データが全部不明になってる。普通は使ってるサービス会社の名前とか、
どこの国のどのへんにサーバがあるかとか大体分かるはずなのに、なぜか厳重に暗号化されてる。まるで国家機密レベル」
「つまり、どういう事ですにゃ?」
「拾ったビラの裏にオレが鉛筆で描いた落書きを、額縁に入れて国営美術館で飾ってるようなもんだぜ?」
「おかしな話ですにゃあ」
「次はこっち。この削除されて何にも残ってないとこ。これじゃ何の手がかりにもならないけど・・・」
今度は、404と表示されていた画面が、黄色に黒文字の派手なブログに変わる。
「これは四ヶ月前のここのブログ。ネットに残ってた、削除される二日前のデータさ」
「写真と装飾が多すぎて見づらいですにゃ・・・」
「ざっと読むと、例のゲームに参加してガッポリ大儲けしたぜ! イェイ! ザマミロ! って自慢話書いたブログだな」
「ゲームに参加した頭の軽い金持ちが、
うっかり秘密を暴露したせいで記事ごと消された訳ですかにゃ」
「多分それで当たりだろな。次はこの掲示板のこの辺を見なよ」
掲示板に書き込まれた文章に、二人が注目する。
噂話やタブロイド誌、ウェブサイト等の情報を元に、
数人の投稿者が情報交換をしている。
ある時を境に、一人の投稿者が他愛の無い暴言を他の投稿者へ向けて投稿し、
それを発端に不特定多数の罵詈雑言による不毛な応酬が始まる。嫌気が差したのか、いつしか誰一人投稿者はいなくなる。
「にゃふふっ、随分と下らない事で張り合えるものですにゃあ。平和な証拠ですにゃ」
「ここだけじゃないぜ。他のトコも見てみな」
他の二つの掲示板も、同じ時期を境に、
様々な名前の書き込みで罵詈雑言の筆談喧嘩が始まり、
誰一人本来の話題を出すものはいない。
あるのは趣味の悪いポルノサイトの宣伝と、見るに耐えない罵倒の短文のみ。
特に目立つのは、空欄の投稿者名で『死ね』とだけ書かれた不気味な書き込み。
とにかく大量に投稿され、
掲示板全体をまるでパンに生えたカビのようにびっしりと埋め尽くしている。
ゴキリ。
「癪に障る」
「ご主人様、ここで銃に手をかけてもどうにもなりませんにゃ」
「フェリエッタ、お願いだから部屋のもの撃つなよ・・・」
左のジャケットの裾に右手を突っ込み、
腰の拳銃のグリップを握るフェリエッタの目の前にルルがクッキーを差し出す。
彼の瞳から薄い怒りの色が消え、銃から手を離し、クッキーを受け取り静かに食べる。
「美味しいね」
「にゃふふ、私が作るクッキーですもの。当然ですにゃ!」
白い目で二人を見て、言葉もなしに呆れるエゼキエル。
気を取り直すようにずれた帽子を直し、
キーボードを操作するとまた黒に緑文字の内部データの表示に変わる。
「で、重要なのはこのヒマ人の寝言。この言い争ってる上の奴と下の奴は一見別人だけど、ここの行を見ると・・・」
「上も下も、同じ番号とアルファベットが並んでますにゃ」
「さらに、この三つの掲示板で罵りあってるマヌケを全部調べると・・・」
画面には、ずらりと数字とアルファベットを組み合わせたコードが表示される。
そこで口論している不特定多数のほぼ全てが、全く同じ組み合わせのコードだった。
一人が下らない戯言を書き、もう一人が徹底的にこき下ろす。そのどちらも、
同じ文字列である。
「つまり、彼らは全員同一人物という事かな?」
「その通り。そして極めつけ」
最後に残った、
真っ白な画面に会社名と電話番号だけが書かれているサイトの構造を調べる。
内部データが表示され、様々な緑の文字列がずらりと並ぶ。
その中の一行にルルが気付いた。
「ここの番号、さっきの掲示板のと同じですにゃ」
「おお、大当たり! よく気付いたねえ。25点!」
「と言うことは、全てこのジェイコブソン・スター・コープって所から書き込まれてると?」
「恐らく間違いないぜ」
「下の番号は何ですかにゃ?」
「番地か何かだと思って色々調べたけど、何も出てこなかったな」
「その会社について何か情報とかありますかにゃ?」
「全然。多分、何かヤバい物を隠蔽する為に作ったニセの社名だろうね」
「結局、奴らの島に関する情報は何も分からないのですにゃあ・・・」
ルルは残念そうな顔をして、腰に手を当てて頭を横に振る。
部屋中に立ち込める熱気も相まって、相当げんなりしているようだ。
その横で、フェリエッタは謎の社名のサイトの情報を眺めて何か真剣に考えている。
「やっぱりエゼックはエゼックですにゃ」
「おいおいそりゃ無いだろ! 俺がいなかったら僅かな進歩すら無かったんだぜ?
ヘミーも何か言ってやれよ!」
エゼキエルが振り向いて、バスケットの横でクッキーを食べていたヘムロックの方を見る。
しかし、気付けばそこにはヘムロックも、バスケットの影も無かった。
「ヘミーめ、まーた勝手にどっか行った・・・」
「恐らく涼みに行ったんでしょう。この部屋居心地が悪すぎますにゃ」
「廊下のど真ん中で五時間も昼寝できる奴が言ったって、説得力ないぜ?」
「渡り廊下はここほどひどく無いですにゃ。私も外の空気を吸ってきます」
「ハイハイ。ったく、これだからメス猫って奴らは・・・」
ルルは床に散らばる部品や配線を爪先歩きでまたいで、
複雑に入り組んだ棚の迷路を抜ける。
ドアの外に出て数歩進むと、騒音が遠ざかり、
心地よい風が吹き込んで、体全体に纏わり付いた熱気を吹き消していく。
こもった熱気を振り払うように、両手で後ろ髪をかきあげて背伸びをする。
風の吹き込んだ方に目をやると、
ガラリと開け放たれた出窓の窓枠に頬杖をついているヘムロックが見えた。
何か悩んでいるような雰囲気で、その足元には空になったバスケットが置かれている。
「何か考え事ですかにゃ?」
「ん、何か忘れてる気がするのよ。何か頼まれてた事があったような・・・」
彼女の隣の出窓にルルも頬杖をつく。太陽が屋敷の影に沈みかけている。時刻は四時。
外から吹き込む森林の風が心地良い。
ヘムロックが小さく溜息をついて、中庭を眺めたまま呟く。
「あーあ、エゼックの考えてる事が全然分からないわ」
「さっき言ってたネットの謎ですかにゃ?」
「それじゃないわよ。生まれたときから何年も一緒にいるのに、
全然あいつの事読めないんだもん」
「読めないと言いますと?」
「ふざけて言ってるのか本気なのかよ。一番知りたいこと聞いても、
いっつも答えがバラバラなんだもん」
「にゃふふっ、さてはエゼックが本当に自分の事を好きなのか、
確認したいのですにゃあ?」
ヘムロックは丸い耳をピクリと動かして、無愛想な顔と大きな瞳でルルを睨む。
ルルは彼女の暗い紫色の瞳を、深い青色の瞳で見つめ返して微笑する。
「はぁ。ルルはいいよね、フェルは単純だし嘘つかなくて」
「私達が詮索しすぎるだけで、オスなんて大体、単純な生き物ですにゃ。
ご主人様には当てはまらない部分もありますけど」
「フェルがエゼックみたいに嘘つく事なんてあった? 私は今まで見たことないけど」
「にゃふふっ、知らない方がいいですにゃ」
「あーもー、何なのよもう! ますます分からないじゃないの!」
「一つ言える事は、あなたはエゼキエルにとって、自分が思っている以上の存在ですにゃ」
「・・・どういう事なのよ、それ?」
「好きだとか、恋人だとか、そういう次元よりも上。自分の分身みたいに思ってますにゃ」
「分身ねぇ・・・」
複雑な顔をして、ポケットから取り出した大きな棒付きキャンディを舐める。
ふと、遠く見下ろす中庭に、のそのそと蠢く赤と緑の影が見えた。
影はこちらに気付いたのか、腕のようなツタを大きく振る。
瞬間、ヘムロックが頼まれ事を思い出す。
「そうよ! 思い出した! ロゼッタの車輪の修理よ!」
窓枠を両手で叩いて身を翻すと、
コンピューター室に飛び込んでエゼキエルを大声で呼ぶ。
暫くして、潤滑油のスプレー缶とスパナを持ち、
両手の細い指に、様々なサイズのナットを指輪をはめるようにして出てきた。
そのまま長い廊下をわき目もふらずに走り去る。
ルルは彼女の後姿を見届けて、窓の下に残された空のバスケットを拾う。
その時、窓の外遠くから、風の音に混じって低い音が微かに聞こえてきた。
白く大きな両耳をまっすぐに立てて、音に集中する。
正門のある方角から聞こえる、土を巻き上げる車輪の音と低いエンジン音。
ルルはコンピューター室に入り、配線と棚を潜り抜けて、
まだ画面と睨めっこをしている二人の背後に立つ。
「何か分かりましたかにゃ?」
「ルルか。この会社の正体さえ分かれば、後は簡単なんだけどね」
「にゃふふっ、今日に限って、ぴったりのお客様が来たようですにゃ」
「・・・お客? 一体誰だよ、またおマヌケブラザーズでも来たのかよ?」
「鉄の馬、蹄の音ですにゃ」
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
夕暮れ時の森深く。辺りは青黒い夕闇で染まり始め、
家路を急ぐ様々な鳥達が慌しく木々の上を群れて飛び交う。
野草や樹木が生い茂る中に付けられた二本のタイヤの跡の上で、
野ウサギとリスがそれぞれ夕食を探す。
突然、二匹は同じ方向を見つめて飛ぶように逃げ去る。見つめた先、
延々と続く道の向こうから、
一つのヘッドライトの光と共に低いエンジン音が地鳴りのように迫り来る。
土埃を巻き上げる、乗用車のタイヤを二本束ねたほどに幅の太い後輪。
低いハンドルから伸びる、1.5メートルは優にある前輪を支える長いフロントフォーク。
銀色に光る巨大なエンジンから伸びる、二本の長く太いマフラー。
車種はチョッパーと呼ばれるもので、この世に二台とない特注品の、
黒に紅蓮の炎のペイントの、巨大なバイク。
その鋼鉄の跳ね馬を意のままに操り、
タバコの煙を燻らせて木々の間を疾走するのは他の誰でもない、アッシュ刑事だ。
時には地面をブーツで蹴り、段差で跳ねる巨体を全身で安定させ、
未舗装の悪路を猛スピードで走り抜ける。
この種のバイクは長距離の舗装路を巡航する為のもので小回りがほとんど利かず、
狭い山道、ましてや悪路での走破性は文字通り最悪だ。
さらにサスペンションが無いも同然の為、激しい衝撃を直に受ける。
そのような事は気にも留めず、
信頼する愛車と不向きな悪路での腕試しを楽しむが如くアクセルを回す。
まるで煙幕のように濃い紫煙が辺りを包み、肌に当たる風の湿度が急激に変わる。
闇が深くなる周囲とは反対に、深い木々の向こうにぼんやりとした光が見えてきた。
そのまま光へと続く道沿いにバイクを走らせると、
突然森が途切れ、大きな洋館の門の前に辿り着いた。
急ブレーキをかけ、盛大に土埃を上げながら横滑りしてバイクが停車する。
片足を付き、落ち葉や霧の水滴で曇ったゴーグルを外してハンドルにかける。
タバコの煙を吐いて、屋敷の様子を伺う。
まるで古い映画のように白黒ばかりが使われた屋敷。
壁のあちこちにある大きな半円形の窓はぼんやりと明るい。
緑の芝生と美しい庭園が広がる、広大な庭に人影はない。
ふと、巨大な正門が開いているのに気付く。
まるで招かれているようだ。一抹の怪しさを覚えつつも、
ゆっくりとバイクを徐行させて中庭へと乗り入れる。
五臓六腑に響き渡る、低回転するエンジンの重低音。
しきりに左右を警戒しながら噴水を迂回する。
吸っていたタバコが燃え尽きる。
その吸殻を、鋲が付いた黒革のグローブから露出した指で噴水の中へと弾き飛ばす。
大きな玄関の前にバイクを止め、無骨なスタンドを蹴飛ばしてキーを抜く。
ハンドルの手前にある燃料タンクの横に付けられた、
そう大きくない黒革のバッグを外して肩に掛ける。
燃料タンクのキャップは、ライターのものとよく似た、
保安官バッジを模したものだ。バイク自体よりもずっと古びている。
玄関前の石段を上り、ドアに手を掛けようとした瞬間、
風も無いのにひとりでにドアが開いた。
拍子抜けしたように、ジーンズのポケットに手を入れ、警戒しつつも中へと歩を進める。
豪華なシャンデリアと赤い絨毯。
鉄板入りのライダーブーツが、重い足音を広いホールに響かせる。
ピタリ。アッシュが歩みを止める。息を吐いて、僅かに俯いて目を閉じる。瞬間。
「そこだ」
革の擦れる音と金属音。
目にも留まらぬ早業で右腰の巨大なM500リボルバーを引き抜く。
その場で振り返り、片手で撃鉄を起こしながら、
玄関の真上にある半円形の大窓に狙いを定める。
左手はポケットに入れたまま。微動だにせず、
目を細めて黒い影が覆う窓枠を狙い続ける。
「にゃふふっ、やっぱり気付かれましたにゃあ」
窓枠の影が動き、影の中から両手を肩の高さに挙げたルルが微笑んで現れる。
アッシュはニヤリと笑うと、親指で銃の撃鉄を戻し、
高速で銃をスピンさせて革のホルスターに納める。
それを見て、ルルは五メートル程の高さの窓枠から飛び降り、
軽い音を立ててアッシュの前に着地する。
「・・・相変わらずバレバレだな、ミセス蝋人形」
「毎度感心します。人間で私の気配を読めるのはあなた位ですにゃ」
「フン、そういうお前はどこからアタシに気付いてたんだよ?」
「五キロ先の坂道を通る音が、風に混じって聞こえたので」
「笑っちまうね。このバケモンめ」
「にゃふふっ。ところで、今日はわざわざどういったご用件でここまで?」
自分よりも頭二つも大きな来客を見上げながら、ルルが彼女なりに丁寧な応対をする。
両手をコルセットの前で揃え、笑顔で見上げるルルを見下ろして、
アッシュがバッグから一枚の写真を出す。
「こいつらを知らないか?」
ルルが写真を受け取って確認する。
身長を確認する為の目盛りが付いた部屋で撮られた、犯罪者逮捕時の写真。
身長165センチの小太りの男と、身長185センチのヒョロ長の男。
どちらも精根尽き果てたような、ひどい顔をしている。
間違いなく、前日早朝に屋敷に来た、あのお間抜け二人組みだった。
「この二人でしたら、昨日の朝早くここに迷い込んで来ましたにゃ」
「その後はどうした?」
「リヴァーネさんがライフルとショットガンで追い払いました。
にゃふふ、どうやら運良く生きてたみたいですにゃあ」
「リヴァーネ? 聞いたことないね。また新顔かよ?」
「ええ。一週間前に来たばかりですにゃ。何でも、その猟師二人にいきなり撃たれたとか」
「・・・そいつは人間か?」
「いいえ。キツネの剥製の女の子ですにゃ」
「・・・ふっ、なんだよ、剥製か。それなら問題ないな。生きた人間なら、一応供述でもと思ったんだが」
「はるばるお越しになられたのですにゃ。彼女の所へご案内します。多分、地下の射撃場ですにゃ」
「丁度いい。アタシにも撃たせろよ。署の射撃場でコイツを撃つと上のヤツらが喧しくてな」
「もちろん。ここなら対戦車ライフルも撃てますにゃ」
玄関から真っ直ぐに続く、果てしなく長い廊下をルルとアッシュが歩く。
左右には等間隔に大きな扉が立ち並んでいる。
四分ほど歩き、十字路を右に曲がった所にある石造りの螺旋階段を、
ぐるぐると廻りながら降りて行く。
壁には手摺と電気式のランプが備えられているが、
人間の目にはかなり薄暗く、不気味に感じる。
一階、二階と石壁で作られた地下に潜り、
地下三階の広いトンネルのような地下道を歩く。
照明は壁伝いに付けられた古めかしい電灯以外にはない。
螺旋階段よりもさらに暗く、恐怖感を煽る。
所々には除湿機らしき装置も置かれているが、
ジメジメと冷たく湿った空気が肌に絡みつく。
「ったく、いつ見ても吸血鬼の屋敷だねえ。地下何階まであるんだよ?」
「地上十二階、地下六階建てですにゃ。最下層は川へ繋がる地下水脈と直結してます。水道はそこから」
「こう屋敷が広いと、召使いどもが無駄に苦労するな」
「厳密な召使いは一人もいませんにゃ。掃除好きな住人が何人もいるので助かってます」
「見た感じ、お前が一番ただのメイド臭いけどな」
「にゃふふっ、よく言われますにゃあ」
他愛も無い会話をしながら、幾つも枝分かれした長い道を進む。
すると、奥の部屋から銃声が響いてきた。
半円状の地下トンネルに何度も反響する、重い銃声。一発、二発と続けて響き渡る。
進むほどに銃声が次第に近づいてくる。
そして、鉄枠で補強された頑丈な木扉の前に着いた。
ルルは扉に付いた、古式銃のグリップ部分を切断して作られた、
手作りのドアノッカーを二度打ち付けて鳴らし、外開きの扉を開く。
招かれてアッシュが中に入る。薄暗い地下道とは対照的に明るい室内。
明るさに一瞬目が眩むほどだ。一列に並べられた頑丈な木製の机。
その先には五十メートル程もある、長大なシューティングレンジ。
灰色のコンクリートとレンガで強固に固められた長方形の室内。
レンジの床面には一メートル毎に目盛り線の塗装がある。
射線の先は二十メートル程の、大量の砂が盛られた緩やかな上り坂になっており、
高威力の大口径弾も水切りの様に斜面を跳ねて砂に埋まり、
安全に停止するよう細工されている。
天井には電動式のレールが備えられ、
机に置かれたスイッチ一つでターゲット用紙を射撃位置から安全に配置、交換できる。
その後ろには丸テーブルや椅子がいくつも並び、まるでカフェテラスか休憩所のようだ。
整備中の銃が置かれたテーブルもある。壁一面に設置されたガンラックには、
中世の先込め式火縄銃から最新鋭の改造タクティカルライフルまで、
ありとあらゆる種類の銃が保管されていた。
ダァン!
シューティングレンジの奥から大きな銃声が響く。
音の先には大きなウィンチェスターライフルを構え、
二十メートル先にセットした、
悪人の影を描いた紙製のターゲットを一心不乱に狙うリヴァーネの姿があった。
ルルはドアの近くにある大きなキャビネットの引き出しを開け、
中から取り出したワインのコルク栓を自分の大きな両耳に詰める。
少し引き出しを探り、一般的な射撃用耳当てをアッシュに渡す。
アッシュはそれを受け取ると、耳に当てずに首に下げる。
「リヴァーネさーん! ちょっといいですかにゃーっ!」
ルルがリヴァーネを大声で呼ぶ。
ルルと同じく耳にコルクを詰めていたリヴァーネは振り返ると、
尻尾をふわりと一振りし、
弾薬の箱が置かれた目の前のテーブルにライフルを置いてコルク栓を外す。
金色の両耳をぴくぴくと震わせて、長い髪をかき上げた。
「あら、ルルさん。よくここにいると分かったわね。
それと・・・ 向こうの人は初めて会ったかしら」
「アッシュだ」
「初めまして。リヴァーネよ」
「実はちょっと聞きたい事があってな。こいつらに見覚えはないか?」
アッシュがルルに渡したのと同じ写真をリヴァーネに見せる。
写真を見た瞬間、リヴァーネは吹き出した。
「こっ・・・ こいつら・・・! ふっ、ふふっ、あはっ、あはははははっ!」
「・・・撃たれたにしちゃ随分面白そうだな」
「ちょっと、ちょっと待って! あはははっ! あいつらっ! あははははっ!」
銃を置いた、分厚いテーブルを手でバンバン叩きながら爆笑する。
振動で、テーブルの上の数発の弾丸が倒れて転がり落ちる。
笑いの波をどうにか通過し、笑いすぎてガラスの目に滲み出た涙を拭きながら、
一呼吸して語りだす。
「ごめんなさいね。ただの思い出し笑い。昨日の朝早く、こいつらがいきなり私を撃ってきたのよ」
「朝早くの森で一体何を?」
「門を出て左にずっと歩いていくと、白い花が生えてる木があるの。それを摘んでたのよ」
「何のために摘んでた? そこの蝋人形にでも頼まれたのか?」
「違うわ。小さい頃からずっとやってるの。朝一番の森で散歩。水気の多い空気が好き」
「いい趣味だねえ。それで、撃たれてからどうした?」
「頭に来たから屋敷に駆け込んで、フェリエッタに教えてもらったコレを、
二階の壁から外して持ってきたの」
「殺すつもりで?」
「もちろんよ。二人とも絶対仕留めるつもりで、玄関ホールに立ってた所を撃ちまくったわ。でも当たらなかった」
「やるねえ。正当防衛だ」
リヴァーネはガラスの目玉を輝かせながら、
意気揚々と大きなアッシュを見上げて何の歪曲もない、そのままの事実を語る。
小さなリヴァーネの取調べをしているアッシュもどこか楽しそうで、
いつものクールな顔には微かに笑みが浮かんでいた。
「で、フェリエッタったら奴らを殺すななんて言い出して、塩入りの銃を渡してきたのよ」
「やっぱりアイツか」
「それで、森の中に逃げてった奴らを追いかけて、やっと見つけた背中をとにかく撃ったわ。そしたら・・・」
「そしたら?」
「あっ、あいつら、二人揃って『あひょ!』って! あひょって! あっはははははっ!」
「それで笑ってたのかよ・・・」
また、腹を抱えて笑い出すリヴァーネ。話の全容が掴めたアッシュは、
満足げな顔をして手帳にメモを取り始める。
「・・・よし、大方予想通りだった。供述ありがとな。お嬢ちゃん」
「え? 供述ってまさか、あなた刑事なの?」
「そのまさかだ」
「てことはルル、この人、普通の人間なの?」
「それだけでなく、まだ生きてますにゃ。
ふふっ、誰がどう見てもコイツ、悪魔の使いですけどにゃあ!」
ルルの言葉に驚きを隠せないリヴァーネ。手帳を閉じ、思わずニヤけるアッシュ。
「じゃあ、今日は私を捕まえに来たわけ?」
「いや、ハナから奴らが悪人だと感づいてたよ。今は適当な容疑で拘束してるが、
奴らを正式にぶち込む大きな証拠が欲しくてね」
「・・・あのハンターどもを捕まえたの?」
「逮捕した時、苦し紛れに言ってたぜ。『死んだほうがマシだった』ってな」
「でも、人間の法律じゃ、私達を撃ち殺しても罪には出来ないんでしょ?
それに私、もう生きてないのよ?」
「没落貴族の娘が撃たれて、屋敷の女中が昔ながらの正当防衛。
奴らは証拠隠滅と嘘の供述をした。これならどうだ?」
「完璧だろうけど・・・ そんな嘘を付いて大丈夫なの?」
「フフッ。あのメガネ弁護士が付いてきた嘘の数に比べたら、
この程度は小数点にも入らねえよ。それにな」
アッシュはライダースジャケットの胸ポケットから、
まだ塩の粒が残る、リヴァーネの使った青い散弾銃の薬莢二個と、
金に光る、長いライフルの薬莢、赤い散弾銃の薬莢を取り出して見せる。
「お前を実弾で撃った証拠と、こっちに殺意が無かった証拠も押さえておいた。これだけあれば嘘も本当になる」
「・・・人間にも、あなたみたいな良い人がいたのね」
「アタシは善人じゃないよ。一人でも多く悪人を吊るしたいだけさ。それに、どうしようもない野郎はな・・・」
ズダアァァン!
突然の爆発音と衝撃波に、リヴァーネは思わず転んでしりもちを付く。
いつの間にかアッシュの右手には、煙を昇らせる巨大な愛銃が、
レンジの先のターゲットに向けて握られていた。
リヴァーネが起き上がり、ぴたりと構えられた巨大な銃身の先を見る。
三十メートル先に吊られた、銃を持つ悪人の影を描いた的紙の、
頭部の部分が焦げてぽっかりと無くなっている。
あまりの早業。呆気に取られるリヴァーネ。
アッシュは煙る銃口に息を吹きかけ、銃を回転させて腰に収める。
「こうやって、昔ながらの方法で解決すんのさ」
「一体いつ銃を出したのよ? それに、そんな大きな銃、初めて見たわ」
「スミス・アンド・ウェッソン、M500マグナム。今ん所、世界一デカいリボルバーだ」
「私にも撃てるかしら、それ」
「やめとけ。体重百キロの大男でも、下手すると手首を壊す。それよりもな」
アッシュがテーブルの上に放られたウィンチェスターライフルを手に取る。
右手で銃のグリップを握り、まじまじと眺める。
「この博物館モノの1892を使いこなす方が、ずっといいさ」
1892とは、このライフルのモデル名だ。ウィンチェスターM1892。
先に設計された、ウィンチェスターM1873を改良したものだ。
その年号が示す通り、一世紀近く前に設計されたもので、
この銃は紛れも無くその当時に製造された物である。
彫刻も少なく質素だが、油を吸い込み、擦り減って輝きを増す、
ストックと呼ばれる木製の肩当て部分。
何度か交換され、機関部よりも幾らか新しい装填用のレバー。
西部劇に詳しいアッシュには、その価値がよく分かる。
「でも全然当たらないのよ。フェリエッタにいい撃ち方を聞いても、
とにかく弾をバラ撒いて素早く込めろ、しか言わないし」
「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。アイツは昔から、
そういうトリガーハッピーの馬鹿だ。まあ見てな」
ライフルのレバーに指をかけ、腰の真横でぐるりと銃全体を一回転させる。
カシャリ。遠心力でレバーが前後され、
銃身へ直結した弾薬を発射する部分、薬室に弾が装填される。
しっかりと銃の後部を肩に当て、左手で木製のカバーで覆われた銃身の下を支える。
ダァン!
先程アッシュが撃ち抜いた隣に下げられた、
ターゲットに描かれた男の額にまた穴が開く。
尊敬の目で見上げるリヴァーネに、アッシュがライフルを手渡す。
「さっきやったように、しっかり肩に当てて両手で構えろ。引き金はゆっくりと握りこむように絞れ」
「銃が大きくて上手くいかないわ。手が伸びきって、なんか窮屈」
「ハハ、お前が小さいからな」
「バカにしないでよ!」
「わざわざ立って撃たなくていい。そこのテーブルに銃の先を乗せてやってみな」
リヴァーネは両手で抱えたライフルのレバーを動かし、次の弾を発射可能な状態にする。
言われた通り、ライフルの先端をテーブルに置き、
少し前屈みでターゲットの悪人を狙う。
片目を閉じ、敵と銃の照準を重ね合わせ、ゆっくりと締め付けるように引き金を引く。
ダァン!
銃声が響き、的紙が揺れる。弾は的の左上の空白部分に当たり、悪人は無傷だ。
その結果にリヴァーネは、小さく溜息をつく。
「やっぱり、私ヘタなのね」
「・・・そうだな、嬢ちゃん、狙うときに何を考えてる?」
「絶対に当ててやるって思ってるわ。あの絵の悪人が私の仇だと思ってね。殺してやるって」
「それだ。嬢ちゃんは口では強がってるが、まだどこかでためらってるのさ」
「私がためらってるですって?」
「誰でもそうさ。アタシだって最初はためらった。
最初から、躊躇もなしに誰かを殺せるのは、一部のイカれ野郎だけだ」
そう言うと、アッシュは後ろの休憩テーブルに腰掛けて、
鼻歌交じりにくつろいでいるルルを横目で見る。
彼女は暇つぶしに、銃に特殊な彫刻刀で何か模様を掘り込んでいる。
ふと、彼女が視線に気付く。
「にゃ、どうかしました?」
「気にすんな。でだ、嬢ちゃん。お前が特別気に入ってる奴はいるか?」
「何よ、突然」
「居なけりゃ気にすんな」
「一人いるわ」
「それなら、殺すべき悪人と向かい合った時、こう考えるんだ。
目の前の敵を撃たなければ、大切な仲間も、自分の帰る場所も、
全てそいつに奪われるってな」
遠い目をして、射場の彼方を見つめながらアッシュが言う。
凛々しい顔に、何か深いものが見えた気がした。
リヴァーネはその言葉を心で復唱しながら、レバーを鳴らして次弾を装填する。
銃身を置き、肩当てをしっかりと付けて構え、
片目でターゲットの悪人をじっと見つめる。
もしも、突然現れた彼が、昨日自分と共に泣いてくれた彼女を奪おうと言うのなら―
ダァン!
的紙が揺れる。悪人の胴体が焦げ、貫かれる。
放たれた鉛と銅の銃弾は、見事に的の中心に吸い込まれた。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
乾いた風が吹き荒む荒野に、ぽつんと立つ廃墟と化した教会。
そこに一人の男が佇む。革のコートにテンガロンハット。
手には薔薇の花束を持ち、亡き妻と娘の墓前で静かに俯く。
「一人生き残るのも、辛いだろう」
背後に、濃い色のジャケットと紳士帽を被った、怪しい男が現れる。
俯いた革のコートの男が振り返る。その胸には輝く保安官バッジ。
「お前は俺から、生きる意味を一つ残らず奪い去った」
「ならば、こうしていても仕方あるまい」
宿敵はジャケットをめくり、腰に下げた拳銃を保安官に見せ付けた。
保安官はテンガロンハットの下から、鋭い目で静かに宿敵を睨み付ける。
そして、薔薇の花束を二人が立つ中央に放り投げた。
ふわりと宙を舞う花束。舞い散る花びら。そして、それが地面へと落下した瞬間に―
ダダァァン!
荒野に響く二発の銃声。抜きざまに腰だめで拳銃を発射する二人。
一呼吸おいて、崩れ落ちる宿敵。
そして保安官は、左手に残した一輪の薔薇を、
そっと亡き家族の墓前に手向けて、何処かへと立ち去った。
「かっこイいわネえぇぇぇッッ!」
それを見て興奮の声を張り上げるのは、
年代物の大きなブラウン管テレビの前に張り付いてキャラメルを頬張るアリスだ。
隣には早撃ちに見惚れるシュラウドと、ストーリーに感動して涙するリヴァーネもいる。
足を組むアッシュはソファに腰掛けて瓶コーラを飲みながら、
住人達の様々な反応を楽しんでいる。
「なかなかいいだろ? ガキの頃から相当気に入ってる映画だ」
「私もアノ帽子ほしいワ!」
「すげぇ! まさか銃を上下逆にして撃つなんて、予想もしなかったぜ!」
「悲しいけど、いい話ね・・・」
屋敷の一階、エゼキエルがゴミの山から拾い、
修理したテレビとデッキが置かれた広い休憩室。ふわふわの絨毯やソファがある。
半世紀以上前の、白黒の西部劇映画。
修理を繰り返したビデオデッキが、歪な音を立ててビデオテープを吐き出す。
古い西部劇好きのアッシュが持ってきた、
自慢の映画コレクションからダビングしたビデオだ。
これが初めてではない。見かけによらず子供好きのアッシュは、
所用で屋敷に来るたびに新しいビデオを持ってくる。
テレビの電波が届かないこの屋敷で、
不定期に届くビデオ達は住人にとっての貴重な娯楽だ。
「あの、アッシュさん。何度も言いますけど、上の蔵書室でご主人様が待ってますにゃ」
「分かった分かった。ったく、せっかち蝋人形め」
ソファの後ろから呆れた顔のルルが顔を出す。
アッシュはうんざりしたように、コーラの空瓶を木製の肘掛に置いて立ち上がる。
もう一度見ようとビデオを入れ直し、
ビデオデッキの巻き戻しボタンを探す三人を尻目に、二人は部屋を出る。
壁や床の白黒に、絨毯とドアの赤茶ばかりの長い廊下を歩き、
広く長い階段を上り、三階の蔵書室を目指す。
「そういえばな。昨日の晩、下のハイウェイのバーが新しくなってたんで、
ひやかしに入ったんだけどな」
「もしかして、半年前に潰れたあのバーですかにゃ?」
「潰れたんじゃねえよ。例のマフィア共が前の経営者を土地売買の為に追い出したんだ」
「マフィアと言えば、昨日の朝に私とご主人様で買出しに行った時、道で配達屋に絡んでる三人組が居ましたにゃあ」
「・・・そいつらをどうした?」
「ご主人様がいきなり蜂の巣にしようとしたので、私が死なない程度にお相手しました。
にゃふふっ。もしかしたら今頃、出血多量か流れ弾で死んでるかもしれませんにゃあ。
その方がいいですけどにゃ」
「・・・やっぱりお前かよ」
「にゃう? 奴らに会ったのですかにゃ?」
「そのバーで好き勝手やってたんだよ。恐らくお前にやられた自棄酒だ。
とりあえず三人とも、伸ばして引っ立てたさ」
「ふふっ、にゃはははっ! いい気味ですにゃ!
生かしておいた甲斐がありましたにゃあ!」
「ったく、どうせお前かあの黒いのか、
どっちかの仕業だとは思ってたがな。毎度やりすぎだ」
「私なりに、最大限の慈悲をかけてあげましたにゃ。用事が無ければそのまま止まらず、車で轢き殺してます」
「奴らが一言も供述しない訳だ。署の奴らはマフィア数人同士の抗争と見てるが、
まさかメス猫一匹にやられてたとはな」
「にゃふふっ、どういたしまして」
バーの事件の真相も解決した所で、
蔵書室の大きな両開きの扉に辿り着く。ルルがドアをノックして、二人が入室する。
広い部屋一面に置かれた、背の高いアッシュですら最上部に手が届かないほど高い本棚。
料理本、様々な言語の辞書、歴史の資料。びっしりと様々な書籍が保管されている。
本棚の列の中を歩いていくと、部屋の中央に置かれた丸テーブルに資料を広げ、
一人で調べ物をするフェリエッタがいた。先程エゼキエルが見つけた、
『ジェイコブソン・スター・コープ』という謎の社名と番号のメモを中心に、
住所録や電話帳、果ては暗号解読の本まで広げている。
顔には丸い眼鏡をかけ、目を細めて小さな文字を読む。
何時になく真剣で、近寄り難い雰囲気。まるで、怪しげな魔術を研究する魔法使いだ。
「ご主人様。アッシュさんですにゃ」
「よう、黒いの。今度は一体何を企んでんだ?」
「ああ。ようこそ、アッシュ刑事。丁度いい所に来てくれたね」
今日屋敷に来てから、初めてアッシュを『刑事』と呼ぶフェリエッタ。
この屋敷で彼女をそう呼ぶのは彼しかいない。
フェリエッタは両目の間に鼻当てで挟み込んでいた、つる無しの丸眼鏡を外す。
彼に人間の耳はない。こめかみの後ろから頭頂部へと生える大きく尖った猫の耳には、
通常のつるを耳にかけて装着する眼鏡を着けることができない。
しかし、鼻筋だけで止める物なら何の問題もない。
アッシュは何か納得したような顔をして頷く。
「・・・なるほど。お前ら、そうやって眼鏡かけてたのか」
「近眼でね。普段はあまり必要ないが、小さな文字を読むには少々見難くて。今日は何の用事でここまで?」
「ちょっとした事情聴取だよ。間抜けハンターが二人来たろ? あいつらをぶち込む証拠探しだ」
「何故、我々が関わってると分かったんだ?」
「未だに銃に塩なんて入れる馬鹿、お前以外に居ないと思ってな」
「お見事。相変わらずの名推理」
僅かな動揺すら見せず、平然と己の所業を認めるフェリエッタ。
柔らかな笑みを浮かべた表情には、罪悪感も居直る風もない。
それに関しては、毎度の事であり、何の意外性もない。
しかし、アッシュには理解できない点があった。
「一つ聞くが・・・ あの剥製娘にどうして実弾を渡さなかった?」
そう、彼らを生かして現世に返した理由だ。既に数え切れない遭難者がいる森。
一人や二人の外国人、それも密猟者が行方不明になった所で、
捜索隊は毎度の事だとハイウェイ沿いの僅かな範囲しか捜索しない。
下山させてしまえば、この世界の存在や、
異形の者たちの存在が表沙汰になるかもしれないのに。
「内面的な問題だよ」
「内面的? 何の話だ?」
フェリエッタは後ろ手に両手を組み、ゆっくりとアッシュに歩を進める。
そして人差し指をピンと立てて解説する。
「キツネの彼女、リヴァーネは心から人間を嫌っているんだ。特に、ああいう連中をね。
だが、彼女の心には安全装置が掛かったまま。それを外す為に、わざと致死性の低い弾を渡したんだ」
アッシュの脳裏に、リヴァーネが先ほど射撃場で見せた、
躊躇に揺れる灰色の瞳がちらつく。
「死なない弾なら、やさしい嬢ちゃんでも奴等を存分に撃ちまくれるって魂胆かい」
「その通り」
「お前にしては珍しく、クズどもに慈悲をくれてやったと思ったんだが」
「そこまでは考えていなかったな」
「だろうね。・・・お前がいつもの45口径で撃てば、ものの一秒でカタがついただろ?」
フェリエッタは立てた指を否定するようにゆっくりと横に振り、両手を組みなおす。
「傷つけられて、彼らに復讐を望んだのは誰でもない。彼女自身だ。
もしもあの時、私が獲物を横取りしてしまったら、リヴァーネの怒りの火は消えずに大きくなるだけだ。
やがてその炎は、無関係な者も、彼女自身をも飲み込んでしまう」
「もしも奴等がありのままを話して、それを信じて軍隊でも来たら、お前はどうするつもりだった?」
「いつもと変わらない。おもてなしをするだけさ」
「そうかい。フン、お前らしいよ。忌々しいね、全く」
「どうも。・・・ところで、よければこっちの推理にも力を貸して欲しい」
フェリエッタが社名と番号のメモを差し出す。
アッシュは受け取ると、下の番号をじっと見つめて考える。
何かを思い出したように、懐から手帳を取り出してパラパラとめくり、手がかりを探す。
そして、とあるページでその指がピタリと止まった。
「・・・あった。こいつは隣県にある、ロレンヅェッタ・ファミリーと繋がりのある、マフィア共のアジトの電話番号だ」
「電話帳には載っていなかったね。念のため電話してみたが、ずっと留守番電話らしい」
「当たり前さ。この『ジェイコブソン・スター・コープ』の『スター』ってのは、麻薬の隠語だよ。
この番号に電話して、留守電に数量と取引場所、時間を暗号で教えておく。すると、売人が指定場所に現れる」
「そういう事だったのか・・・ どうりで情報が掴めない訳だ」
「何だよ? 麻薬取締りのボランティアでも始めようってのか?」
「ここがアノマリー・ハンティング・ゲームの手掛かりらしいんだ」
「・・・ハハッ、今度はタブロイドのネタか。こっちで捜査した事もあったが、
何の証拠も出ねえ所か、本署から長ったらしい文句を聞かされたよ。捜査費用の無駄だってな」
「リヴァーネがその被害者なんだ。彼女の仲間と家族を殺したのも、彼女を剥製にしたのも、その大会らしい」
アッシュの表情が変わる。少しだけ俯いて考えると、懐からタバコを出して火をつける。
先ほど射撃場で的を狙っていた、彼女の復讐心に満ちた横顔を思い出す。
煙を吐き、静かに鋭い双眸を開く。
「・・・畜生、嘘じゃなかったとはね。あいつの顔を見た。間違いなく、あれは何かを心から恨んでる顔だ」
「今こうしている間も、捕らえられて殺される時を待つだけの者と、
遊びの為に命を奪われた者がいる。私は一人も残さずに、彼らを救いたい」
「そうは言うが、捜査機関の極秘情報だ。いかなる部外の人間にも口外は出来ねえよ。・・・ところで」
アッシュは部屋をぐるりと見回し、フェリエッタとその隣に並ぶルルを見る。
そしてタバコを指に挟み、その手で二人を指差す。
「この部屋にはガリガリの白猫が一匹と、黒コゲのバカ猫が一匹。部外の“人間”は一人もいねえ。そして今から独り言だ」
アッシュがタバコを銜えてニヤリと笑う。つられて二匹の猫の口元も緩む。
テーブルにあったペンと白紙を拾い上げ、アッシュが地図のようなものを描いていく。
「シャルドリア、リバレット市から西へ二十キロ走った所に、カルシェツアって寂れた街がある」
さらに、その下に四角い建物の絵を描く。
その線は歪み、お世辞にも絵心があるとは言い難い。
「そこの郊外、山道の外れに、二階建てのコンクリート建築がある。日が暮れると、外に見張りが立つ」
「見張りの人数と武装は分かるかい?」
「玄関前に二人、屋上に一人、裏口に一人と付近の見回りが一人。
裏口と屋上の奴はショットガンを持ってる。他は恐らくハンドガンだけだ」
「中で何をしているのか、分かりますかにゃ?」
「ああ。アタシの同僚が毎晩見張ってるよ。恐らく麻薬の製造だ。明確な証拠はないが、人身売買か誘拐もやってるはずだ」
「人身売買?」
「二ヶ月前、建物に黒のバンが一台来た。降りた奴等は大きなバッグを二人掛かりで、
裏口から運んでいった」
「おやつの材料か、差し入れのピザでも運び込んでただけじゃないですかにゃ?」
「暴れるケーキにスタンガン押し当てる奴がいるかよ?」
ひと呼吸置いて、蔵書室中の空気が、まるで電気を放つようビリビリと肌に刺さる。
それはフェリエッタから発せられていた。立ち込める濃霧のように、
黒い殺気がフェリエッタから溢れ出す。
静かに上げた顔。落ち着いた表情の奥に、赤く焼ける炭のような怒りが見て取れた。
「そこまで分かっていて、何故君達は動かないんだ?」
「・・・分からねえのか、シンジケートだ」
「シンジケート・・・?」
アッシュは深くタバコを吸い込み、ため息をつくように大きくひと吐きする。
燃え尽きたタバコの灰を、先ほど描いた自分の絵に落とす。
「犯罪組織とはいえ、マフィア共も一つの企業だ。バカが成り行きでやってる訳じゃない。
そして、いつしか一部の奴等は同業者との抗争を避けて、利益のために協力し合うようになった」
「それが何の問題なんだ? 全武力をもって、全員を逮捕すればいいだけだろう?」
「出来ねえんだよ、甘ったれ。実態が全く掴めないんだ。
命令無視して、そこいらじゅうに踏み込んでるアタシだって奴等の素性は把握できねえ。
それどころか、下っ端を二、三ダース挙げた所で、奴等がやる事は決まって一つ。証拠の完全抹消だ」
「・・・口封じの為に、部下を殺しているのか?」
「部下もボスも関係ねえよ。犯罪共同組合の存在を少しでも表面化させる恐れのある人物は、
全員が処刑の対象だ。内部の人間であれ、外部の人間であれ。
警察も、軍隊も、ジジイもババアも女子供も関係ねえ。必要とあらば即処刑する。
連盟の組織同士、互いに殺し屋を用意して鉄の掟で秘密を守ってるのさ。
オープンで気楽なお前らと違ってな」
証拠隠滅、鉄の掟、処刑。その一言一言が彼の大きな耳に入る度、
静かで心地良いはずの部屋が強烈な違和感に包まれて行く。
フェリエッタは一言も発さず、無音。
だが、彼の燃えるような怒りは確実に部屋の空気を伝わり、
内側から直接胃袋を両手で締め上げるような心地悪さが部屋中を包む。
フェリエッタを横目で睨み付け、アッシュはもう一度タバコを肺の深くまで吸い込む。
「・・・処刑と言ったが、何故、彼らに抵抗する者はいないんだ?
彼らを憎む者や、彼らと戦う者が」
「抵抗? ハッ、甘く見てるな。奴等にとって、邪魔者の排除はあくまで商売だ。
聖戦でも、復讐でも、快楽殺人でもねえのさ。
抵抗するならまず弱い奴、そいつの身内、肉親や子供を狙う。
そうして精神的に追い詰める。もし子供に情が移ったりして、しくじった殺し屋も邪魔だとなれば、
その殺し屋を処刑するための殺し屋をまた送り込む。ダブル・ヒットって奴だ。
全ては商売の為。奴等にとっては殺すも生かすも、ただの市場戦略なんだよ」
「・・・慈悲の余地は無し、か」
フェリエッタが静かに目を閉じる。何か考えるようにしてそのまま微動だにせず、
一呼吸おいて静かに口を開く。
「全員、殺していいな」
感情のない、静かにつぶやくような声。
しかし、その言葉自体から鮮血が滲み出すような、あまりにも明瞭な殺意が篭っていた。
目を閉じたまま、大きな耳と尻尾を重力に任せて垂らし、
その姿よりもドス黒い殺意を増幅させてゆく。
間違いなく、彼は、建物の全員を血祭りに上げる気だ。
ふと、アッシュは一人の同僚の顔を思い出し、フェリエッタを制す。
「待て。毎晩日付が変わるまで、同僚が向かいの山道で張り込みをしてんだ。
奴は頭が足りねえから、何かあれば無駄に加勢して、死ぬのが目に見えてる。
仮にも同僚だ。あのバカを巻き込みたくはない」
「わかった。それ以降にする」
「奴さえ巻き込まなければ、アタシは何も言わねえよ。全員、チケット持たせて地獄へ送ってやりな」
アッシュが短くなったタバコの火を、自分の描いた建物の絵に押し当てて消す。
絵には銃で撃ち抜いたように焦げた穴が開く。
フェリエッタが静かに目を開ける。鈍い輝きを増すワインレッドの瞳からは、
全ての感情が消えたように見えた。
「ルル、今の時刻は?」
フェリエッタの隣に立つルルが、ひし型のコルセットの中から懐中時計を出し、
開いて確認する。
「五時半ですにゃ。私のミニなら十二時までに、奴等の場所まで走れます」
「よし。急いで準備を。今すぐ出発だ」
「おい、ざっと考えて中の奴らは二十人以上、それも完全武装だ。二人だけでどうすんだよ?」
アッシュはフェリエッタ達を引き止めようとする。外には散弾銃と拳銃を持った警備が五人。
それだけでも、問題の建物の警備には十分過ぎるほどの人数だ。
さらに内部の正確な情報はない。
警察であれば、周囲を完全包囲して投降を呼びかけた上で、
狙撃手が見張り達を撃って無力化し、
短機関銃や散弾銃と防弾ベストで武装した、
最低でも四人編成の攻撃部隊を正面と裏口から同時に突入させる。
どれだけ楽観的に考えても、
完全武装のエキスパートが最低四人は必要だ。二人だけでは自殺行為に他ならない。
だが、ルルはアッシュの警告を軽く笑い飛ばし、さも当たり前のようにアッシュを見る。
「にゃふふっ、ご安心を。いつもご主人様の作戦は一つですにゃ」
フェリエッタはジャケットの裾の下から、
彫刻とメダルが金に輝く二挺の拳銃を両手でゆっくりと取り出す。
同時に両手の銃を軽く投げるように浮かせ、
上部のスライドを掴んで後方にずらし、排莢口から装填された銃弾を確かめる。
そして、二挺を空中で交差させるよう高く放り投げて、
落下した銃を両手を大きく広げ、同時にキャッチした。
まるで二挺の銃と体全体で十字架を表しているようにも見える。
そして、俯いた顔を静かに上げる。
「正面から行って、一人残らず撃ち殺す」
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
Resulted Justice
正義とは何か。
悪に罰を与え、懲らしめることが正義だとするなら、話は単純だ。
しかし、その罰はどこから来るのか?
その罰は誰が定義するのか?
誰かが定義した罰に従い、悪人を殺す。
結果として、世界に正義がもたらされた前例は多い。
だが、従う罰が、独りよがりでしかない、不確かな物だったとしたら?
英雄が自らの怒りだけを信じて、悪人を殺戮しているとしたら?
それを、正義と呼べるだろうか。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
現世。カルシェツア郊外の山道。人気のない外れの道、
崖の手前に停まる、無骨で大きな四輪駆動車、銀のレンジローバー。
崖下に見える鬱蒼と生い茂る木々を挟み、
向かいの山道には、窓のない、一軒の工場のような建物がある。
遠くに見える木々の影から覗く、
無機質なコンクリート建築。双眼鏡の倍率を上げると、
建物の周りをうろつく、暗い色のスーツを着た男達の顔がはっきりと見て取れる。
アジトへ繋がる道は、こちら側から見て右側の一本だけ。
双眼鏡を道沿いになぞると、歩きタバコを燻らせるスーツの男がうろついている。
再び建物へレンズを向ける。
細い一本道以外は、前後左右とも針葉樹で覆われた、小高い丘で囲まれている。
何度見ても、完全に防衛された要塞そのものだ。
これほどまでに強固な警備を敷く場所に、何も無いはずはない。
しかし、今日もアジトはいつもと変わらず、
朝に発った一台の黒いバンが先ほど戻っただけだった。
バンの行方は掴んでいる。リバレット市の外れの歓楽街にある、
数軒のダンスクラブやストリップ劇場だ。
恐らくは、この場所から運び出した麻薬を売りさばいているのだろう。
しかし、明確な証拠はどこにもない。
何か動きを見せろ。尻尾を出せ。今日も何度も心でつぶやく。
その時、ラジオから規則的な電子音と、軽いチャイムのような時報が暗い車内に響いた。
「国民の皆様、いい夜をお過ごしください。シャルドリア国営放送が、午前0時をお伝えいたします」
タイムアップを伝える、ラジオの時報だった。
高価な軍用双眼鏡を助手席に置き、ため息をついて、
ポケットから取り出したガムを口に放る。
刺さったままのキーを回してエンジンを掛ける。
室内灯に照らされる、装飾のほとんどない、無骨で広い車内。
「今日も収穫なしか・・・」
デービスは残念そうな声で呟くと、
助手席の背もたれに掛けていたスーツの上着を羽織り直す。
肩からぶら下げていた、ツヤのない黒色の角ばった大柄な拳銃、
USP40を収めた肩掛けホルスターがスーツにひっかかる。
その時、ダッシュボードに取り付けられた無線機にノイズが入り、
聞き覚えのある声が流れ出した。
「デービス、リバレット八番道路沿いのコンビニに強盗が入った。
今、スポーツカーで逃げた奴らを三台で追跡してる。
こっちに応援はいらないが、早いとこ署に戻って、空いたアタシの分をカバーしな」
酷い雑音混じりに聞こえる、低いハスキーボイス。
喧しく鳴り続けるサイレンと、タイヤが滑る音も聞こえる。
どうやら今日もまた向こうで、
刑事ドラマの最終回ばりのカーチェイスを繰り広げている様子だった。
それはいつもの事だとデービスは思う。
アッシュは事件発生と聞けば、パトカーや私物のバイクで真っ先に現場に駆けつけ、
応援も待たずに突入し、必要とあらば銃撃戦も厭わない、
生まれ付いての命知らずだ。大抵は犯人が先手を撃たれて投降するが、
他の警官を死傷させたり、人質を傷つけたが為に、
胸板ごと心臓を粉々に吹き飛ばされた哀れな悪人も数え切れない。
しかし、そんなアッシュが本署の応援を頼んでくるのは、
彼女と出会ってからの三年間で二度しかない。デービスは珍しさを感じた。
「おいおい、オレが車で一時間の山に張り込んでるのを知ってるだろ? 本署に他の連中はいないのか?」
「ハッ、今日に限ってスーパーマンでも現れると思ってんのか?
そこでドーナツ食ってるヒマがあるんなら、とっとと戻って、所長のデスクの片付けでも手伝ってな!」
直後、音割れした複数の銃声と、男達の叫び声が響く。アッシュの舌打ちに続いて、
無線が完全に音飛びする程の爆音が響く。
「おいアッシュ、銃声がしたぞ! 大丈夫か!」
「ちょっと奴らが窓からぶっ放しただけだ。当たる訳ねえさ。
今からあの、いけ好かねえスポーツカーを廃車にするから、今すぐ本署に行って、
始末書と冷えたコーラを用意しとけ。分かったな? 氷とレモンも忘れるな!」
「・・・ハイハイ、分かったよ」
銃撃戦の真っ最中でも、毎度の如くデービスをからかうアッシュ。
いつも通りの調子に呆れ、張り込みの連続した緊張が一気にかき消される。
向かいの建物に変わった動きもない。
「全く、とんでもない"野郎"を相棒に持ったもんだ」
シフトレバーを倒し、サイドブレーキを解除して車をバックさせる。
デービスはヘッドライトを付けると、
土埃を巻き上げながら、リバレット市に向かってレンジローバーを走らせた。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
デービスが監視していた建物の真後ろ、
針葉樹が鬱蒼と生い茂る暗い森の中。小高い丘の上。
樹林の間に収まるように、非常に小ぶりな一台の小型自動車、
ミニ・クーパーが停められている。
深い青色の車体。丸いヘッドライトの上から後部にかけて縦に走る、
二本の白いストライプ塗装。
一般的なセダンと比べてもその車体は数段小さく、
全体的に丸みを帯びたデザインは、まるで子猫のようだ。
だが、タイヤは悪路にも対応した太く強堅なものに換装され、
内部の部品やエンジンも大胆に改造されている。
ライトを消した車内には、
小さな車のサイズに見合った、白と黒の小柄な影が並んでいた。
土埃を上げて走り去るレンジローバーを、
狭いフロントガラスの向こうの木々の隙間から、真鍮の望遠鏡で見送る。
「アッシュさんのお仲間が帰りましたにゃ」
アンティークな伸縮式の望遠鏡を押して縮めながら、
右側の運転席に座ったルルが助手席のフェリエッタに囁く。
この車種は左側通行国で設計、生産された物であるため、ハンドルは右側に付いている。
「十二時三分か。大体時間通りだね」
フェリエッタはオペラグラスと呼ばれる、棒状の取っ手と装飾の付いた、
古めかしい双眼鏡で眼下に見えるアジトを監視している。
辺りをうろつく見張り達が、こちらに気が付く気配はない。
当然だった。ルルはこの改造ミニ・クーパーを巧みに運転し、
当初の予定よりも三十分早く、このアジトの近くまで辿り着いた。
ルルは離れた場所に一度車を停め、フェリエッタを車内に待たせて、
建物が見える距離まで徒歩で忍び込んで偵察し、この最高の監視場所を見つけたのだ。
途中、森の中には多数の有刺鉄線と警報機があったが、
それらを見つける度にルルは、まるで駐車券でも取りに行くように、
車から降りてはニッパーで有刺鉄線や警報機のワイヤーを切断し、
難なくここまで辿り着いてしまった。
普段からルルは、明かり一つない闇夜でも、
人通りのある場所以外では車のヘッドライトを滅多に使わない。
三重に仕掛けられた警報を鳴らさずに、
アジトの真後ろの木々を縫って車が進入するなど、下のマフィア達は考えもしない。
ましてや、深夜の森の中で、明かり一つも無しに。
「ご主人様、そっちのグラスを貸して下さいにゃ」
望遠鏡では倍率が合わないらしく、
フェリエッタがルルにオペラグラスを渡す。取っ手と本体を握り、
眼下のコンクリートの要塞の様子を伺う。
真正面に見えるぼんやりと明るい小さな裏口には、木製の握りが付いた、
長い散弾銃を出入り口脇の階段の手すりに立てかけて、
タバコを銜えるスーツの男が一人。
さらに上にオペラグラスを上げる。
所々がヒビ割れたコンクリートの壁面には窓が一つもない。
まるで、窓を描き忘れて絵の具をベタ塗りにしたような不自然さだ。
裏口のドアの上に、規則的に左右する灰色の箱が見える。
監視カメラだ。据え付けられたカメラの角度からみて、
丘のふもと一帯を監視しているようだ。屋上を見る。
真四角の大きな箱に、ドアを据え付けたような、
屋上階段を覆う小さな屋根。そこにも一台の同じカメラがある。
その横、下の男の物と同じような散弾銃を肩に担いで、
双眼鏡を覗き、屋敷に続く一本道を監視するスーツの男が一人。
しきりに、先ほどまで張り込みのランドローバーが停車していた場所も確認している。
どうやら、彼の張り込みはずっと前からマフィア達に知られていたようだ。
真四角なコンクリートで囲っただけの、
屋上の手摺。その下に、屋上にたまった水を抜くための雨どいがあるのに気が付く。
雨どいを辿るように見ると、
雨どいから二、三メートルの距離に鉄製の格子が嵌った、箱状の突起を見つけた。
ふと、視界の下方で何かが動く。
素早くそちらにレンズを向けると、抜き身の拳銃をぶら付かせて、
何やら話しながら、裏口へ向かって歩く二人のスーツの男が見えた。
「見張りの男が二人、裏口に回って来ます」
「アッシュ刑事の言っていた、玄関側の見張りかな」
ルルはそのまま、二人を監視し続ける。
建物の道路側、無造作に駐車された一台の大きな黒いバン。
そのすぐ脇のコンクリートの壁に寄りかかって、退屈そうに二人が話し込んでいる。
ルルはキーを軽く回し、
エンジンを掛けずに自分側のパワーウィンドウを少しだけ開ける。
開いた窓から片耳を出し、彼らの話に聞き耳を立てる。
「・・・ったく、今日はツイてたぜ。あんな上物がまんまとひっかかるとはな!」
「今頃ミスター・タピアにタップリ仕込みをされて、上も下も分からなくなってる所さ!」
「うへへ・・・! なあ、隙を見てツマミ食いしに行こうぜ!」
「バカ言うんじゃねえよ! ボスにバレたらなぶり殺しだ!」
「ケッ! またおあずけかよ! しまらねえな、クソッ!」
ルルは出した片耳を二度振り、頭を戻して窓を閉める。
そして、ゆっくり俯いてクスクスと笑い出す。
彼女の様子を見て、フェリエッタはすぐに気が付いた。
目を閉じて、にんまりと笑う彼女の横顔を見る。
「・・・私以上にお怒りかな?」
「にゃふふっ、バレました?」
「君は怒るといつもその笑い方をする。分かりやすい」
「奴らは人身売買の話をしてました。どうやら、躾けた女性を売りさばいてるらしいですにゃ」
「女性に対する敬意無しだね」
ルルはフェリエッタを見て微笑むと、ドアを開けてミニ・クーパーから降りる。
吹き抜ける風になびく、白銀色の美しいロングヘアーと、真っ白い獣の耳。
フリルや装飾の少ない、
首元が四角く開き、両肩の部分が三角形に突き出したデザインの、
膝下まである、黒いドレスのようなロングのジャンパースカート。
三角屋根のような肩の下からは、
袖口にフリルの付いた、灰に近い黒色のワンピースの長袖が覗いている。
腰に巻いた銀色の、ひし形をした胴全体を覆うほどに大きなコルセット。
緩んでいた左脇の紐を細い指で締めなおす。
長い白の靴下に、いつもと同じ黒いおでこ靴。
腰まである髪の中から伸びた、
長く白い猫の尻尾の先には、真っ赤なリボンが結ばれていた。
屋敷に居た時と全く変わらない、
いつものスタイル。ルルは外出時のおしゃれに随分気を使うが、今日は違うようだ。
「ルル、人間に変装しなくていいのかい?」
「大丈夫ですにゃ。ちょっと中の様子を見て、すぐまたここに戻って来ます。
誰にも見られません。そして私の影を見た者は、誰一人喋りませんにゃ」
「舌を抜くのかな?」
「いいえ。喉を裂いてあげます」
「君にしては良心的だね」
「さっきの話のタピアとかいう男は別ですにゃ。たっぷり時間をかけて、ゆっくりと
痛みを満喫させてやります。死が恋しくて、たまらなくなるほどに」
「大賛成だ。ところで、これは必要ないかな? サイレンサーもある」
フェリエッタは懐から、細い円筒形の銃身を持った小型の銃を取り出した。
愛銃の45口径と同じく、金の彫刻入りの漆黒の本体に、赤い木製のグリップ。
大戦中、世界中の士官達に愛用された32口径の小型自動拳銃、
ブローニングM1910だ。
さらに銃と同じ程の大きさの、
チョコレートスティックのような黒い円筒形の部品を取り出し、
銃身にねじ込むように回して取り付ける。
銃声を打ち消す事の出来る部品、サイレンサーである。
長い筒の内部は、銃弾を通す穴が開いた幾つもの仕切りがあり、
発砲時の強烈な衝撃波を分散させて、
減音と銃口からの火花をある程度隠す事が出来る。
完全に無音にはならず誤解を招くとして、
近年では公的機関等を中心に、サウンド・サプレッサーという呼び名に変更されている。
しかし、細かい事を気にしない上に懐古趣味のフェリエッタは、
最初に覚えた呼び名を改めようとしない。
この銃であれば、裏口にいる三人を次々に射殺しても、
屋上の見張りですら銃声に気付きはしないはずだ。
くるりと銃を反転させ、銃身を握って、
開いたドアの向こうのルルに差し出す。しかし、ルルは軽く手を振ってそれを断る。
「間に合ってますにゃ。自分のがあります」
そう言うと、ルルは大きなコルセットの中に右手を滑り込ませると、
銀に輝く小型の拳銃をくるくると回しながら取り出した。
コルト32オートの名で知られる、M1903ピストル。
フェリエッタの愛銃をそのまま二周りほど小さくして、
極力まで突起を取り払ったような形をしている。
フェリエッタの差し出した銃と同じ32口径。弾丸の直径は7.65ミリと小ぶりだ。
月明かりを反射して、銀一色に煌く本体。ユリの花を模した、
細い曲線の彫刻が黒の墨で全体に彫り込まれている。
黒いプラスチック製のグリップの中央には、大きな銀のユリの紋章、
フルール・ド・リスのレリーフが彫られていた。
そのスライド右側には、「Tempesta.32(テンペスタ.32)」と銃の名が彫られていた。
「いい銃だ。君の彫るエングレーブはいつ見ても美しい」
「にゃふふっ。私にとって、銃はあくまで予備です。それよりも・・・」
右手から左手に、お手玉するように銃を渡して、コルセットの中、右脇の部分にしまう。
彼女は右利きだが、訳あって左手で抜きやすいよう、
いつもその場所に銃を携帯している。
そして、おもむろに右手をコルセットに入れると、
目にも留まらぬ速さで、銀に光る刃を引き抜いた。
それは刃渡り25センチ程の、巨大なナイフだった。
そのまま目前に軽く放り投げ、
空中で大きく一回転させ、刃の部分を下にして、逆手で握りを掴む。
切っ先が鋭い刃の中心は、軽量化のための楕円の穴が開いていて、
背の部分はノコギリのように凶悪なギザギザの刃。
銃と同じく、銀の刃には黒いユリの彫刻が所狭しと丹念に彫りこまれ、
荒々しい軍用ナイフの雰囲気に、優雅で、どこか不気味な気品が加わり、
彼女のその姿と同様に、独特で異質な雰囲気を醸し出している。
金属の芯を包む、等間隔に溝が刻まれた木製の柄。
底にはハンマーのような、打撃用の金具が取り付けられている。
刺殺、斬殺、撲殺。そのあまりにも攻撃的なフォルムは、
まさに殺しのマルチツールだった。
「これで直接、息の根を止める方が好みですにゃ」
「はは、君が持つと、銃よりもずっと恐ろしいね」
「ご主人様はこのまま暫く待ってて下さいにゃ。
もし五分経って戻らないか、銃声がしたらプラン変更です」
「いつものプランだね。分かった。・・・そこは急斜面だ。足元に気をつけて」
「にゃふふっ、お心遣いに感謝しますにゃ」
フェリエッタは差し出した銃を自身の膝の上に置いて、開いた運転席のドアを閉める。
そしてフロントガラス越しに親指を立てて、グッド・ラックと応援をする。
ルルはそれにウインクで答え、長い髪と尻尾を揺らして、
崖のように切り立った斜面の淵に歩む。
空を見上げると、雲の切れ目から美しい白金色に輝く、
満月になりきれない小望月が姿を見せる。
月明かりを反射して、ルルの瞳孔が細くなる。
目を閉じて深呼吸し、俯いてから静かに顔を上げ、眼下の建物を睨む。
「・・・とりあえず、悪魔に奴らの魂を、捨て値で捌くとしますかにゃあ」
ぽつりと呟くと、ルルは針葉樹が立ち並ぶ、
切り立った二十五メートル程の斜面へと、何の躊躇もなく飛び降りた。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
ガサアッ。聴き慣れぬ奇妙な物音が、停められた黒塗りの大型バン、
サバナ・エクスプローラの向こうから、静けさが覆う闇夜に響き渡った。
「・・・今の、聞こえたか?」
「何だ?」
玄関の監視をサボり、先ほどまで人身売買の話をしていた、
金の短髪と茶髪のオールバックのスーツの男二人が、
音がした方角を警戒する。どちらも同じような背格好で、
似たような暗い色のスーツを着ている。
深い闇に覆われた夜の森。二人が頼れる光源は、
頭上で喧しく点滅する切れかけの蛍光灯と、
腰にぶら下げた軍用のフラッシュライトのみ。
短髪の男が懐から、黒の本体に銀のスライドの、
箱のように角ばった拳銃を取り出した。
樹脂を多用した、比較的新しい45口径の拳銃。グロック21だ。それにつられて、
オールバックの男も似たような黒一色の9ミリ拳銃、
グロック17を取り出す。二人に緊張が走る。
ゴオォと大きな音を立てて、山岳地帯特有の不気味な風が吹き抜ける。
短髪の男が、恐れを隠し切れずにオールバックの男を促す。
「・・・おい、ちょっと見てこいよ」
「何だよ、ビビってんのか? そのクソッタレ無線機を持ってるお前が行くべきだろ?」
「・・・へっ! 仕方ねえな!」
怖気づいたのを誤魔化すように、
短髪の男は腰のケースにぶら下げていたライトを引き抜いて、
左手で、スイッチの上を逆手で握りこみ、小指側に発光部が来るように持つ。
顔の真横にピッタリとライトを付けて、右手の銃でしきりに索敵しながら、
物音のしたバンの陰を覗き込む。
車のドアは閉じられていて、ネズミ一匹すら辺りにはいない。何の異常もない。
ガサッ。
また物音がした。今度は、バンの真後ろの、
腰ほどの高さの草で覆われた茂みの中からだ。
ライトを向け、恐る恐る、一歩ずつ歩を進める。
ガサッ。茂みの奥、幕のように密集した草の向こうだ。
意を決して、一気に茂みの奥に踏み込んだ。
地面に何か見えた。それは、捨てられて薄汚れた、灰色のビニールシートだった。
山風が強く吹き始める。周りの物音が空気の流れにかき消され、
ほぼ聞き取れなくなる。
「正門、状況を報告しろ」
腰に下げた無線機が、音割れして感情のなくなった声を出す。
拍子抜けしたようにライトを腰に戻して無線機を取り出し、
ボタンを押して返答を返す。
「こちら正門、異常なし」
無線機の送信ボタンから手を離す。その瞬間。
ズシャッ!
無線機が地面に落下する。短髪の男は目を丸くして、
歪な音と衝撃の走った、自分の真下を見る。
そこには、背後から首に回した少女のような細い腕と、
己の首元から突き出す、血まみれの銀の刃が覗いていた。
刃が引き抜かれた瞬間、男は溺れたような断末魔を小さく上げながら、
喉から大量の血を垂れ流して地面に倒れた。
「・・・おい、どうした?」
ただならぬ気配。異変を察知したもう一人のオールバックの男が、
先ほどの男と同じようにライトと銃を構えながら、足早に茂みへと向かう。
草のカーテンを潜り抜けた途端、
うつぶせで血溜りに倒れる短髪の男が目に飛び込んだ。
伏せた顔がこちらを向いている。見開かれた瞳孔。
半端に開いた口から流れ出る、おびただしい量の血液。
その「死」だけを意味する骸の表情は、本能的な恐怖を存分にかき立てる。
「ど・・・ どうなってやがる! クソッタレ!」
男の顔が青ざめる。銃とライトを左右に大きく振り、
死に物狂いで襲撃者を探そうとする。
左から物音。光の輪と銃口がそちらを探る。影も形もない。
右から足音。焦り、震える手で銃を向けるが、男には何も見えない。
再び突風が吹きすさむ。男には何も聞こえなくなった。
恐怖で、銃を振り回すようにぐるぐるとその場を回転する。
ふと、地面に転がる無線機が男の目に入った。
ライトを捨て、飛びつくように無線機を拾い上げる。
「こちら正門! 一人殺された! 異常事態だ! すぐに応援を・・・」
だが、無線機は何の返事も返さなかった。焦り、何度もボタンを押して、無線機に叫ぶ。
声は強い風に吹き消され、周りにいる他の仲間には届かない。
「ふふっ、電池は別売ですにゃ」
不意に、背後から甘い声で囁きが聞こえた。恐怖で目を見開いて、
振り向きざまに片手で握り締めた拳銃を声の方向に向ける。
そこには、握りを右手で持ち、左肩の上で銀の小ぶりな投げナイフを構えたルルが、
男から三メートル程後ろの茂みに立っていた。
髪を大きくなびかせ、男の持つグロックの照準が合うよりもずっと素早く、
十センチ程の投げナイフが手から放たれる。
等間隔な穴が握りの部分に開いた銀の金属棒の先に、
両刃を付けただけのような、シンプルなスローイング・ナイフ。
そして、投げナイフは男の頭蓋骨をぶち抜いて、
広い額の眉間に刃の根元まで突き刺さった。
白目を剥き、銃と無線機を力なく地面へ落とし、
一呼吸置いて、糸の切れた人形のように地へ崩れ落ちるオールバックの男。
一瞬で、音もなく二人の武装した男を殺害したルルは、
事切れたオールバックの男の死体の両足首を掴み、茂みの奥へと引きずって隠す。
まだ暖かい、死体の脳まで突き刺さった投げナイフを引き抜き、
コルセットから取り出した黒のハンカチで刃先を素早く拭いて、
その両方をコルセットの中へ戻す。男の死に場所に残された、無線機を拾い上げる。
左手に握っていた乾電池二本を素早く無線機に入れなおし、
音量ダイヤルを最低にしてからコルセットの左脇に挟み込んだ。
人間にはほぼ聞こえない、蚊の鳴くような音で定時の無線連絡が聞こえる。
一人目の男を殺してすぐに、無線機の電池を抜き取り、
わざと二人目に拾わせるよう仕組んだのだ。
拾い上げる隙に投げナイフで殺害するのも、全て彼女の思惑通りだ。
「屋上、状況を報告しろ」
「こちら屋上、状況に変化なし」
屋上と内部の定時連絡が聞こえる。これで相手の動きがある程度把握できる。
茂みの中から建物の屋上を見上げる。
屋上の男の影は見えない。素早く茂みから黒のバンまで走りぬけ、バンの影に潜む。
猫のようにしゃがみこんで、大型で無骨なバンの下から、建物の付近を確認する。
人影は見当たらない。車の影から飛び出し、
先ほど殺害した男達がもたれていた壁に背を付け、
そのまま壁伝いに建物の角まで足早に移動する。
壁の終わりまで来ると、コルセットからサバイバルナイフを抜き、
刃先を角から少しだけ出す。
先端三センチの部分に、角の向こう、裏口の光景が、鏡のように反射して映し出される。
二十メートル程先の場所に、十五秒ごとに左右を見張る監視カメラ。
その下には、散弾銃を壁に立てかけて、タバコを銜えた見張りが立っている。
男とルルの間には、裏口へと上がる為に付けられた、
三段ほどの小さな階段と金属製の手すりがある。
直接仕留めるには不利だ。ルルは一目見て判断する。
気付かれぬよう足音を消して進めば、カメラが振り向くまでの時間に間に合わない。
障害物を乗り越えれば大幅なタイムロス。迂回すればカメラに発見される。
ルルは非常に足が速いが、全力疾走ではどうしても足音が目立つ。
もし男の銃の腕が確かなら、一発撃ち込まれてしまう。
身体能力を生かし、監視カメラの上、
垂直の壁を思い切り走り抜けて一気に仕留める方法もあるが、
一瞬でも遅れて男に叫ばれてしまえば、屋上の見張りに発見されてしまうだろう。
ここは確実に、尚且つ素早く事を収めたい。ナイフをしまい、
ルルはコルセットの中から、一枚の25セント硬貨を取り出す。
カメラがゆっくりと反対側を向き始めた。タイミングは完璧だ。残り時間は29秒。
そして、ルルは壁に背を向けたまま、
手元の壁面に硬貨を勢いよく叩きつけるように投げる。
チャリン。特徴的な金属音が闇夜に響く。
ルルはその場を動かず、息を殺し、しゃがんで待機する。
「・・・何の音だ? おい、誰か居るのか?」
スーツを着た見張りの男は、素早く脇の散弾銃を手に取ると、
腰だめで構えながらルルの隠れる場所へと足早に向かう。
一歩、二歩。男の足音が迫り来る。残り時間はあと20秒強。
カメラの角度は正面を向き、視線の折り返し地点が迫る。
男は壁の角まで来ると、一度壁に背を付け、散弾銃を真上に構えた。一瞬の沈黙。
そして、男は散弾銃を角の向こうに突き出すように、壁から飛び出した。
瞬間。突き出した銃の真下に潜んでいたルルが、
散弾銃の銃身と、引き金の手前の部分を掴んだ。
流れるような動作で、
引き金の真上に付いているボタン式の安全装置を押し込んで発砲不能にし、
そのまま、飛び跳ねるように勢いよく立ち上がりながら、
銃を思い切り真上に振り上げる。
バキィ。腰だめで構えていた、木製の大きな肩当てが男のあごに当たり、
強烈な打撃が加わる。銜えていたタバコが弾き飛ばされ、
小さなうめき声を上げて、銃から手を離して仰向けに倒れこむ。
ルルは散弾銃の銃身側を掴んだまま、
間髪入れずに、全体重をかけて銃の肩当てを垂直に、
男の首の真ん中へと杭を打ち込むように振り下ろす。
ゴキャッ。一瞬で、音を立てて男の頚椎が粉々に折れる。
脳と心臓の接続を絶たれた男は目を見開き、
小刻みに痙攣して死んでいく。監視カメラがこちらを向き始めた。
散弾銃を壁に立てかけ、急いで男の死体を引きずり、壁側に引き込んで隠す。
カメラがこちらを向き、ゆっくりと戻り始める。
どうやら気付かれずに済んだらしい。投げた硬貨を拾い、
地面に落ちたタバコを踏み消すとルルは背中を丸め、
姿勢を低くして裏口へと素早く走りこむ。
小さな体躯を生かして、階段と手摺の僅かな隙間をするりと潜り抜け、
カメラの真下の壁にピッタリと背を付ける。
この監視カメラの角度から見て、真下は完全な死角だ。
向こう側に渡るまでは14秒の待ち時間がある。
ルルは乱れたスカートの裾を引いて直してから、裏口のドアを見る。
ドアノブは無く、1から9までの番号が並んだボタンと、
四桁の暗証番号が収まる小さな液晶パネルが付いている。
暗証番号式のセキュリティーロックだ。
解除の方法は知っている。ナイフの先を装置のカバーに突っ込んでこじ開け、
電源を供給している配線を切ればいい。
しかし、それは危険な賭けだ。このレベルの警備なら、
間違いなく予備の警報システムが配備されているはず。
電力の遮断が検知された瞬間、ここ一帯に響き渡るような警報が鳴り響き、
あっという間に取り囲まれるだろう。
だから、ルルはあらかじめ別のプランを用意していた。
先ほどフェリエッタと見たこの建物の全体像を思い出す。
来た道と反対側、カメラが目を離し始めた場所にある、
鉄製の丈夫そうな雨どいを見つめる。
カメラがそっぽを向く。ルルは素早く雨どいに走りより、
雨どいにしがみついて両手両足でよじ登る。
彼女の体重は35キロ。服と武器の合計重量は5キロ程。コンクリート製の壁面に、
曲げた鉄板と鉄の杭で固定されたこの強固な雨どいなら、
合計40キロの彼女が登り切る程度で壊れはしない。
雨どいの中腹まで登りきり、来た道の壁を見る。ここから二メートル強の距離。
5センチほど壁面から突き出した、鉄格子のはまった通風孔。
穴の高さは50センチ。幅は80センチ。
小柄でしなやかなルルには、何の苦労もなく通れる通路だ。
通風孔が目下になるよう高さを合わせ、雨どいから片手を離す。
そして、全身で反動を二度つけると、
一気に二メートル以上離れた通風孔へと飛びついた。
両手の指で、五センチ程の通風孔の突起にぶら下がる。
音はほとんど立たなかった。振り子のように左右する体の揺れが収まるのを待つ。
通風孔の鉄格子を見る。
四隅にマイナスドライバー用の溝が付いたネジで固定されている。
右手を通風孔から離し、左手だけで掴まりながら、
離した手で先ほどの投げナイフを引き抜く。ネジの溝に刃先を突っ込んで、
くるくると回して素早くネジを抜く。
抜いたネジは鉄格子の隙間から、通風孔の中へ入れる。
慣れた手つきで四本全てを引き抜くと、ナイフをコルセットに戻し、
左手と両足を壁に突っ張って、慎重に鉄格子を右手で引っこ抜いた。
カコン。さほど大きな音は立たない。外した鉄格子を縦に寝かせて、通風孔の中に置く。
両手を通風孔の縁にかけ、足からするりと穴の中に体を滑り込ませた。
通風孔の中は暗く、タバコのヤニでひどく汚れている。体を丸めて反転し、
猫のように這う姿勢を取りながら、
ルルは帰ってからの洗濯とシャワーの事をふと考える。
フェリエッタもルルも猫であるが故、本能的に少々潔癖な所がある。
音を立てぬよう、ドレスを余計に汚さぬよう、少しずつ獣のように四つん這いで進む。
侵入者に驚いた居候の、
数匹の不快害虫達がダクトの奥へと一斉に逃げてゆく。その時、真下から声が聞こえた。
「おい、ウスノロども! パッケージの具合はどうなんだ!」
「へへっ、心配いりませんよ。ミスター・スコント」
「今晩中に出荷分の十キロが出来上がりますぜ」
「・・・最後まで気を抜くな! 上手くいけば150万ドルの儲けだ」
二人の若い男の声と、一人の中年の男の声。
おそらく、ミスター・スコントと呼ばれた彼がここの重役なのだろう。
十キロで150万ドルといえば、恐らく麻薬の事だ。
アッシュの話にあった通り、ここがその麻薬の密造拠点なのだろう。
「女の方はどうなってる!」
「二時間前に地下室に運びましたよ。今頃、薬漬けですぜ」
「随分とイキが良くて、タピアの奴も相当手こずったらしいですがね」
「そいつも明日の朝には出荷だ! いいか、ミスは許さんぞ!」
人身売買の話が出た。この建物には地下室があるようだ。
恐らく、どこかで拉致した女性に覚せい剤を打って、
麻薬中毒にした上で売りさばいているのだろう。
スコントと呼ばれた男の踏み鳴らすような革靴の足音が、ドアを開けて廊下に出る。
ルルは足音を追跡するように、暗く薄汚い通風孔の中を気配を消して這って行く。
足音が止まり、左側の金属製の通風孔の壁の向こうへと消える。
ドアを開ける音と同時に、ノイズのように甲高い音と、
地鳴りのような重低音が複雑に混ざり合う、レイヴと呼ばれるジャンルの音楽が
大音響で響き渡り、全ての物音がかき消される。ドアが閉まる音と共に、
男の靴音も消えた。どうやら、防音対策が施された部屋に入られたらしい。
ルルは素早く、物音を消しながらダクトの中を這い進む。
十メートルほど進むと、ダクトが十字路になっている場所に出た。
男の足音が消えた方向、左の通風孔に体を滑らせる。
少し行った所に、防音用の吸音ウレタンが詰められた鉄格子を見つけた。
恐らく、男がいる部屋の真上だろう。
小ぶりな投げナイフを取り出し、防音材に十字の切れ込みを入れる。
瞬間、真下から重低音の電子音と、男二人の声が聞こえた。
「・・・今日も五箇所、組織の情報を探ってた連中をパァにしたんだぞ!」
「さすがだな、ラット。他に動きはないのか?」
不自然に陽気な若い男の声と、先程スコントと呼ばれた男の声。
頭ごなしに部下を怒鳴りつけていた先程の態度とは違い、
話の相手を信頼しているような口調だ。
「へへっ、一件、情報不明の場所からのアクセスがボクらのサイトにあったね、問題ないよ!」
「念のため調べろ。当局かもしれんからな。ついでに、今日仕入れた女を記録しておけ。この写真だ」
「・・・うへへへっ! また上物だ!」
「お前は二番目のお気に入りだ。信頼してるぞ」
「うへへへへへっ! 天才のボクが失敗するはずがないよ! へへへっ!」
スコントが立ち去り、ドアが閉まる。
一呼吸おいて、若い男が強く深呼吸するような音を立てる。
粉末状の麻薬を鼻孔から吸引しているようだ。いわゆるジャンキーか。
壊れた機械音のような音楽のボリュームが上がる。
ラットと呼ばれた麻薬中毒の男は、大方ここのコンピューター係なのだろう。
甲高い奇声。麻薬が効いているようだ。
ネズミの体を持つエゼキエルと、
ネズミの名を持つ男が画面を通して謎掛け合っているとは、何たる皮肉だろうか。
そのエゼキエルが調べていた事柄を思い出す。
複数のネット掲示板への、同一人物の不自然な書き込みと、
それと同じコードが隠された、一件の謎のサイト。先程の話の通りならば、
この男がネット上の妨害工作をしていると見るのが妥当だ。
今日監禁した女性の写真をコンピューターに記録しているとあれば、
同じように売買された人々の足取りも掴めるかもしれない。
真下から、不自然な振動音と男の奇声が聞こえる。
恐らく、先程の写真でお楽しみ中なのだろう。
ルルは無性に、目の前の鉄格子を蹴破って、彼の頭を自慢のナイフのノコギリ側で、
ココナッツのようにザクザクと縦割りにしたい衝動に駆られる。
小さく鼻を鳴らして衝動を抑えると、来た道を後ろに下がりながら十字路まで戻る。
こんな事を考えている場合ではない。
迅速に地下室を見つけて、一刻も早く監禁されている女性を無傷で救出しなくては。
そして、女性と一緒に居るであろうタピアという変態男を、
自分が考え付く限りに、残酷な方法で殺害するのだ。それが今の私のすべき事。
ルルはそう感じていた。
くるりと反転し、自分の真後ろの通風孔を這い進む。
少し進んだところで、ダクトは直角に左へと曲がっている。
顔を出して曲がり角の先を見ると、
高速で回転する刃物のような換気扇が付いていた。行き止まりだ。
回転し、半透明に見えるプロペラの隙間から、何やら白い物体を木箱へと詰め込む、
青い作業衣を着た数人の男が見える。ここが麻薬を積み込む倉庫なのだろう。
ルルは素早く後ろに後退して、音が立たないギリギリの最高速で、
侵入したダクトから真正面、まだ行っていない道を猫のように這い進んだ。
奥まで入ると、ダクトは落とし穴か奈落のように、
垂直に真下へと伸びている。恐らくここだ。ダクトの縁に掴まって穴に降り、
両手両足を狭い通風孔の両側に突っ張って、カサカサと蜘蛛のように降りてゆく。
通風孔の目の前に、大きな本物の蜘蛛が張り付いている。
自分の体勢とそっくりな蜘蛛を見て、ルルは思わず吹き出しそうになる。
十メートルほど下降すると、一本道のダクトが目の前に続いている。
先程のように高速で這い進んでいく。
その時、眼下に嵌った、防音材で覆われた鉄格子から薄明かりが差し込んだ。
投げナイフで大きめの切り込みを入れ、指で広げて覗き込む。
部屋を横切る鋼鉄の梁にぶら下がる、薄暗い裸電球が辺りを照らす。
拷問用の椅子に縛られて、目隠しをされた薄着の女性が見えた。ここだ。見つけた。
ルルは少しバックして、鉄格子の隙間から様子を伺う。
所々に古い血痕がこびり付く、むき出しのコンクリートの床。
鋼鉄製の板のような扉。銃で撃ってもびくともしないだろう。
その左脇に置かれた大きなテーブル。床にボルトで強固に固定されている。
その上には、拘束用のワイヤーやロープにガムテープ、沢山の注射器や薬瓶、
ペンチや医療用メス、フック等の拷問道具が並んでいる。
コツコツと、女性の周りを重い足音が響く。
「・・・それにしても、気丈なメスだったねェ。普通なら一本目で出来上がるってのにねェ」
落ち着いて、他人を見下したような声。通風孔の真下から、
紫色のスーツを着た男が見えた。縛られた女性に歩みよる。
身長は180センチ以上。高級品の時計と装飾品。金のストレートの長髪。
スリムで整った顔立ち。ガラス片のような鋭い瞳。この男がミスター・タピアだろう。
ショートカットの女性の髪を強引に掴み、彼女の目隠しを外す、
端整な顔をした女性の目は虚ろで、瞳孔は開ききっている。
見下したような顔で女性の顎を掴み、虚ろな彼女の目線を、
無理やり見下ろす自身の目線に合わせて囁く。
「ボクの名前のタピア、つまり獏はヒトの夢を食うのが仕事なのさ。
もう少し、楽しませてほしかったねェ」
言い放つと、タピアは顎を掴んでいた手で女性の右頬を強く平手打ちした。
バチンと音が響く。女性に反応はなく、ただ虚ろな目で俯いている。
タピアはそれを確認すると、スーツと同じ紫のネクタイを直し、女性に背を向けて、
窓の無いドアを開けて部屋を出ようとする。その時。
「突然ですが、希望の死に様をお聞きしますにゃ」
タピアは驚いて、長髪を大きく振りながら真後ろを振り返る。
そこには、椅子に縛られた女性の前に、上品に足を揃えて立つ、ルルの姿があった。
タピアの僅かな隙を付いて、鉄格子を外して密室に降りていたのだ。
眼前の光景が信じられず、タピアは目をこする。そして、大げさにルルを指差して叫ぶ。
「お・・・ お前! 一体どこから入ってきた! だっ、誰かっ! 侵入者だ!」
「にゃふふっ、ここが防音室なのをお忘れですか? 叫んでも意味はありませんにゃ」
鉄格子に張られた防音材。ルルはこの部屋が防音処理されている事を見抜いていた。
タピアはドアノブに飛びついて、部屋の外へ飛び出そうとする。
しかし、回転するドアノブと裏腹に、ドアは一ミリも開かなかった。
「ど、どうなってるんだ! チクショウ! 開け! 開けッ!」
幾ら押しても引いても、鋼鉄のドアはびくともしない。
タピアは握り締めたドアノブの異常に気が付いた。
ドアノブの根元には、
女性を縛るために置いていた、三ミリ程の太い金属製ワイヤーが何重にも巻きつけられ、
そのワイヤーのもう一方は、鋼鉄のテーブルの脚に複雑に巻きつけられていた。
万が一拘束を解いた女性が、
テーブルを足場にして通風孔から逃げないようにと頑強に床に固定したせいで、
素手では絶対にどかす事が出来ない。彼の巧妙な監禁術が仇になっていた。
タピアは焦りながらも、巻きつけられたワイヤーを解こうと端を探す。
だが、ワイヤーの上には何重にもガムテープが巻き付けられ、
数分程度の時間では絶対に開けられないように、完璧に封印されていた。
タピアは後ろを振り返る。
ルルは縛られていた女性のロープを大きなサバイバルナイフの鋸で切断すると、
ナイフを戻し、自分より頭一つ大きな彼女を肩にかついで、
部屋の奥、右脇の隅に静かに寝かせた。僅かに呼吸を荒げる女性の肩を優しくさすり、
にっこりと微笑むと、ドアに脚を突っ張るタピアを、身も凍る双眸でギッと睨み付けた。
「監禁される恐怖を、体験できましたかにゃあ?」
ルルは狂気を帯びた笑みを浮かべて、大きな獣の目と、
真っ赤な口から覗く二つの鋭い牙を爛々と光らせて、
一歩ずつ、ゆっくりとタピアに歩み寄る。
逃げるのを断念したタピアは、恐怖を振り払うように長髪を揺らすと、
脇のテーブルから太さ4センチ、長さ35センチ程の、
強化樹脂と鋼鉄で作られた警棒を拾い上げ、両手で握り締めると、
真っ直ぐにルルへ向けた。
ジジジジジイィィッ!
弾けるような、耳を劈く音。警棒の先端にある電極から、稲光のような閃光が迸る。
警棒型のスタンガンだ。手で直接触れるような位置に電極のある、
通常のスタンガンよりも遥かにリーチが長く、
また、警察でも使用される戦闘用の武器であるが故、
通常、護身用に使う50〜80万ボルトと比べて、120万ボルトと電圧も高い。
通常の人間であれば、電極に一瞬触れただけで全身の筋肉が硬直し、
数分間は立つこともままならない。
武器を手にした途端、タピアの顔に余裕が生まれる。
見下すような顔でルルを睨み付ける。
「・・・まさか、本当にアノマリーなんてのがいたとはねェ」
「奴らの仲間なのに、ご存知ないのですかにゃあ?」
バチバチと電極を光らせるスタンガンを、
刀を構えるようにルルに突きつけて、じりじりと円を描くように右に移動する。
ルルも距離を保つように、タピアの動きに合わせて左周りに歩く。
ナイフはコルセットに入れたまま。
武器は構えず、苛立ちを見せるように腕組みをして、タピアとの距離を詰めていく。
「知ったこっちゃないねェ。そういうのは上の奴らの仕事だ。
ボク達の仕事はメスを捕まえて、調教するだけ」
「・・・調教?」
「犬や馬と一緒だねェ、そのままじゃタダの動物だが、躾ければいい金ヅルになるのさ」
「その表現が・・・」
ルルが腕組みを解き、獣のように低く構える。殺気を感じたタピアも身構える。瞬間。
「心底気に入らないのですにゃッ!」
叫ぶと同時に、ルルは一瞬で飛ぶようにタピアに駆け寄り、
互いの手が触れる程の間合いまで迫る。
タピアはルルの胸の部分に狙いを定め、一歩踏み込んで、
スタンガンの先を槍で突くように突き出した。
その瞬間、ルルは背中から倒れるように仰け反り、
スタンガンの先端を避けると、コンクリートに両手を付き、
右足で強烈な後ろ蹴りをタピアの腹部目掛けて打ち込んだ。
ドスッ!
ガラ開きになった胃袋の下に、
黒いおでこ靴が深くめり込む。端整な顔がショックで崩れ、
切れ長の目を見開き、舌を伸ばして背中からコンクリートに叩き付けられる。
手を離れ、床に転がるスタンガンは、安全装置が作動して放電を止める。
「ゲッ、ゲヒイッ! ゲエーッ! オエェェッ!」
左右に身をよじりながら、無様に胃液を吐いて、獣のような声を上げる。
ルルはくるりと身を返して立ち上がると、手を払いながらタピアに歩み寄る。
床に転がるスタンガンを、這いつくばるタピアに向かって軽く蹴り飛ばす。
スタンガンはタピアの手元で停止した。
タピアは口を手の甲で拭いながら、ルルを睨み付ける。
ルルはゆっくりと右手を出して、ちょいちょいと手招きをして小首を傾げる。
「さあ、どうしました? そこでカエルの鳴き真似をしてるだけですかにゃあ?
ミスター・フロッグ!」
「・・・こっ、この、メス猫が!」
タピアはよろめきながらも、スタンガンを握り締めて立ち上がると、
そのまま助走を付けて突進し、ルル目掛けてスタンガンを真上から振り下ろす。
ひらり。ルルは上半身だけを左に揺らすようにして、タピアの太刀筋を完全にかわす。
すれ違う瞬間に右足をタピアの足に引っ掛ける。
足払いだ。加速度のついたタピアの両足が地面から離れ、
完全にバランスを崩して、口を開けたカバのような顔で滑稽に宙を舞う。
再び手から離れたスタンガンも、くるくると弧を描いて飛んで行く。
そのまま、タピアはコンクリートの地面に、顔面からかなりの勢いで叩き付けられた。
「ぐべあぁっ!」
顔を両手で覆い、仰向けになって左右にジタバタと悶え苦しむ。
ルルはそれを肩越しに見て鼻で笑うと、
スタスタと一直線に彼に向かって歩を進める。
顔を抑えるタピアの指の隙間から、ダラダラと血液が流れ出る。
ルルはタピアの手前まで来ると、そのままの速度で真っ直ぐに進み、
段差でも越えるように、そのままタピアの腹を踏み越えた。
「ぐええっ!」
また胃液を吐くタピアを気にも留めずに、ルルは地面に転がる、
落ちて傷だらけになったスタンガンをまたタピアへと蹴り返す。
もはや満身創痍のタピアは、どうにか気力を振り絞って立ち上がり、スタンガンを拾う。
高い鼻は軟骨が折れて歪に曲がり、両方の鼻腔から大量の鼻血が滴り落ちる。
整髪料でセットされていた長髪はグチャグチャに乱れ、
数秒前まで伊達男だった面影はもはやどこにもない。
「にゃふふふっ、中身と外見が近づいて来ましたにゃあ。
ガマガエルの方が心身共に、ずっとイケメンですにゃ」
「ごのっ、ごのっ、ごのメス猫ごときがああああっ!」
タピアはフラフラと左右によろめきながら、左手をズボンのポケットに突っ込み、
右手だけでスタンガンを構えて走り出す。
ルルはそれを見て、ぴくりと眉を動かす。そしてにやりと笑った。
タピアが突き出すスタンガンが迫る。
ひらりと交わし、スタンガンを突き出した右手を両手で掴む。しかし、その瞬間。
「みぎゃっ!?」
コンクリートの床に仰向けに倒れたのは、タピアではなくルルだった。
すぐに体を捻って起きようとするも、
まるで手足が別人の物であるかのように、言うことを聞かない。
肩で息をするタピアが、血みどろの顔で、ルルを肩越しに見下ろしてにやける。
「ハアッ、ハアッ、どうだ、クソ猫が・・・」
ポケットに突っ込んでいたタピアの左手には、
タバコの箱と良く似た形の、小型の護身用スタンガンが握られていた。
ルルが両手でタピアの右手を掴んだ瞬間に、
隠し持っていた予備のスタンガンを、ルルの胸部に押し当てたのだ。
痺れる体に鞭打って、ごろごろと床を転がり、
距離を取ろうとするルルをタピアが早足で追いかける。
「所詮、アノマリーもメスはメスなんだねェ!
メスが男に勝とうなんて、考える時点で罪なんだよ!」
「ゲホッ・・・ その醜態で、勝ったつもりなのですかにゃ?」
「黙れ! この家畜が!」
タピアは自分がされたように、横に寝転がるルルの腹部を、右足で思い切り蹴り飛ばす。
短く猫のような悲鳴を上げて、蹴られた衝撃でルルの体が二度転がる。
「へっ! クズが! お前には特別に・・・」
特別メニューで調教してやる。そう言おうと瞬間、
タピアは前のめりに思い切り転んだ。うつ伏せに地面に這いつくばる。
ルルを蹴り飛ばした側の足を、床に着く事が出来なかった。
タピアは仰向けになり、恐る恐る自らの右つま先を見た。
タピアが青ざめる。高級な革靴の先に、銀の投げナイフが串刺しになっていた。
じわじわとナイフから滴る、真っ赤な鮮血。
刃先はタピアの足の親指に、深く突き刺さっていた。
「ぎっ、ぎっ、ギャアアアアッ!」
激痛にのた打ち回るタピア。それを見ると、ルルは何事も無かったように立ち上がった。
ドレスを叩いて埃を払い、首を左右に回してコキコキと音を立てる。
「にゃふふっ、全て演技です。60万ボルトのスタンガンなんて、肩のコリを治すだけですにゃ」
そう。全てが計算の内だった。タピアがポケットの中に手を入れた瞬間、
予備の武器を取り出すと見抜いていた。
ポケットの中で握り締めた小型のスタンガン。
その四角いシルエットがポケットに浮かび上がるのを、ルルは決して見逃さなかった。
小型のスタンガンはあくまで護身用であり、警棒型程の威力はない。
その程度の電撃など、ルルは慣れきっていた。
そしてあえてスタンガンを受け、倒れた胴体を蹴り飛ばそうとする足に、
手の平に隠していた投げナイフを突き出したのだ。
タピアはとうとう戦意を喪失し、涙と鼻血でドロドロの顔で命乞いを始めた。
「だのむ! だのむっ! ごっ、殺さないでぐれっ!」
「それは貴方の努力次第ですにゃあ?」
そう言い放つと、ルルは麻薬や拷問道具が並ぶテーブルの上から、
長いロープを掴み取った。慣れた手さばきで、ロープの先端に大きな輪を作って結ぶ。
それは、絞首刑で使用する、首吊りロープそのものだった。
「や・・・ やめろ・・・! やめてぐれ・・・!」
恐怖に慄き、座ったままの姿勢で足を引きずり、
逃げ場の無い密室を這うように逃げ惑うタピア。
ルルは輪を作ったロープの先を、天井に渡された錆びた鉄製の梁の上に投げる。
梁から床までの距離は、約2.5メートルだ。
するするとロープを梁の上に送り、ロープの輪が床に落下する。それを確認して、
ルルは足早に逃げるタピアを追い詰める。
足元に転がっていた、警棒型のスタンガンを拾い上げる。
そして、両手で“待て”のジェスチャーを取るタピアの股間の膨らみに、
思い切りスタンガンを突き刺すように押し付けて放電した。
「げぶああああっ!」
バッテリーが尽きるまでの20秒間、下品な悲鳴を上げてタピアは血泡を吹いて痙攣する。
突きにより急所を破壊され、高級なズボンには真っ赤な液体が染み出し、肉の焼ける異臭が立ち込める。
ルルは血で汚れた紫のネクタイを掴み、ロープの輪までタピアをズリズリと引きずる。
予想通り、ロープの輪を彼の首に掛け、反対側を思い切り引っ張る。
「おぐえぇぇ!」
タピアは気道を締め上げられ、本能的に両手の指でロープを緩めようとする。
ロープが吊り上げられ、タピアの両足が伸びきる。
ナイフの刺さっていない左足で立ち、辛うじて首吊りになるのを免れている。
ルルはそれを確認すると、女性が縛られていた拷問用の椅子、
手枷の付いた肘掛けにロープの端を縛り付けた。
タピアは両手で首にかかるロープを必死に掴み、
震える左足で懸命に伸びをして気道を確保しようとする。
舌を突き出し、両目をひん剥く。タピアの血まみれで哀れな顔を、
ルルが真下から見上げる。
「辛いでしょう? 苦しいでしょう?
これでも、あなたに未来を壊された人々の苦しみの、半分にもなりませんにゃ」
「がっ・・・! ぐっ・・・! おげえぇぇ・・・っ!」
「死にたいでしょう? 楽になりたいでしょう?
それすらも許されない、痛みしかない日々を、あなたは多くの人に強いたのですにゃ」
「あがあっ・・・! ぐえぇぇ・・・!」
感情を抑えた静かな声で、微かに天使のような笑みを浮かべて、
ルルはタピアに語りかける。
タピアは思いつく限りの罵倒と呪詛を吐き出そうとするが、
死を約束された彼にはそれすらも叶わない。
カチッ。カチッ。ふと、ルルはタピアが腕に付けていた、
百万円は優にする高級な金時計に気づいた。
声にならない呼吸音を荒げて、白目と黒目を行き来するタピアの腕から時計を外し、
テーブルの上に余っていた、細いワイヤーに時計を縛り付ける。
そして、ロープと同じように梁の上へと時計を投げ、
生に追い縋るタピアの目前にぶら下げた。
「苦しい時間は、永遠にも感じられるものです。この時計の針を見ながら、
今までに穢してきた魂の数を数えるが良いですにゃ」
ルルはタピアの右つま先に突き刺さる投げナイフを強引に引き抜いて、
血と埃で汚れきった、彼のスーツのきれいな内側で血を拭う。
声にもならない叫び声を尻目に、ルルはドアノブに巻きつけたワイヤーを、
裏山へと侵入する時に使ったニッパーで手際よく切断する。
ドアの封印が解除される。ルルといえども、人間をかついで通風孔を通るのは無理だ。
ここはフェリエッタに、白馬の王子様役を譲るとしよう。
部屋の隅に横たわる女性は、まだ朦朧としているようだ。そのほうが良い。
目を見開き、既に永遠とも思える時間の死の恐怖を感じ、
絶望に飲まれるタピアに向かい、
スカートの裾をつまんで一礼すると、ルルは再び通風孔の中へと消えていった。
島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島島
「・・・遅いな」
後部座席に座るフェリエッタは、前の座席の隙間に手を伸ばし、
ダッシュボードに転がっていた小さな懐中時計を手に取って、針を眺めて呟く。
ルルが単身、建物の偵察に向かってから、既に4分が経過していた。
判断力と身のこなしに優れた彼女だ。
銃を担いだだけの素人など、案山子ほどの脅威にもならない。
しかし、事前に交わした約束がある。銃声がするか、5分経っても戻らない場合は、
もう一つのプランに変更するという作戦だ。
予備のプランの内容、それは極めてシンプルだ。
―鉛弾の雨を降らす。
これまでにも、ルルは何度も同じ作戦を使ってきた。時間までに戻らなかったり、
敵に発見され、銃撃戦に発展したケースも何度かあった。
その度、フェリエッタは約束通りにしてきた。
残り時間は、あと40秒。後部座席左側に座るフェリエッタは、
続く隣の席に広げた、三挺の銃器達に目をやる。
いつもの銃が腰に二挺あるが、相手の頭数が分からない以上、
こちらの銃口も多いに越したことは無い。
銀に光る、ステンレス製の巨大な拳銃。太い鉄パイプのような無骨な銃身に、
引き金と赤い木製のグリップがくっ付いたような、比較的シンプルなフォルム。
大口径ハンドガンの先駆け的な拳銃、44オートマグだ。
無骨ながらも、どこか古めかしい気品を感じさせる拳銃だと、フェリエッタは思う。
脇には、同じく銀色に輝くステンレス製の弾倉が二つ。
キラキラと金色に輝く、大粒の弾丸が顔を出している。
相手が防弾ベストで完全武装した4、5人だけならば、
強力無比な44マグナム弾を、7発も撃ち出す事の出来るこの銃は適任だ。
しかし、少しでも射撃の条件が悪ければ、
簡単に弾詰まりを起こしてしまうという弱点も、この銃は持ち合わせている。
その不安定さは、使用した人々からオートマグの名をもじり、
「オートジャム」、“自動弾詰まり機”との不名誉なあだ名を付けられた程だ。
この固体に関しては、フェリエッタ自身が丹念に整備と調整を行い、
弾丸もグラム単位で火薬量の調整をして自作してある為、
弾詰まりの可能性は極限まで低くなっている。
だが、不意に現れた敵に対して、急場しのぎに片手で発射した場合などに、
強い反動を制御出来ずに、弾詰まりを起こさないという保障はない。この銃は却下だ。
次に、オートマグの横に置いた銃を見る。
ルルが彫り込んだ金の彫刻が栄える、
黒光りする二本の無骨な銃身に、ローズウッドのグリップ。
前日、屋敷に来た小太りの猟師も持っていた、
主に狩猟やクレー射撃で使用される、水平二連式散弾銃。
その前後を鋸で強引に切断して、極限まで短く改造したものだ。
鋼鉄の銃身は、左手で支えるための前方の木製のカバーまでバッサリと切り取られ、
後部の木製の肩当ては、手で握る部分だけを残して、完全にそぎ落とされている。
通称、ソードオフ・ダブル・バレル。“ソードオフ”とは、鋸で切り落とすという意味だ。
通常の散弾銃の銃身の中には、ばらける散弾を纏め、
ある程度狙った場所に飛ばすためのチョークと呼ばれる漏斗のような絞りが付いている。
言葉の通り、漏斗で水を纏めるように、散弾を纏める訳だ。
しかし、こうして強引に切断された銃にはそれがない。
引き金を引いた瞬間に銃身の先、前方数メートルの範囲全てに散弾が飛び散り、
銃の前方にある物全てを無差別に破壊する。
全長も短くなり、大きな拳銃のように素早く扱う事が可能だ。
その特徴から強盗やテロリスト達に都合が良く、あまりにも危険だとして、
多くの国でこの改造ショットガンは、厳しい取り締まりの対象になっている。
この現世の舞台である、シャルドリアも例外ではない。
この銃は確かに強力だが、二本の銃身に直接、一発ずつしか散弾を込められない。
二発ごとに銃を二つ折りにしての再装填が必要になる。
その構造は同時に利点でもあり、
先に述べた44オートマグのような複雑な機構を一切使用していない為、
どのような状態で射撃しても、弾詰まりを起こすリスク自体が全くない。
しかし、人質や、拉致された人々が敵と同室にいた場合、
彼らを避けて敵だけを狙う事は不可能ではないが、
誤射の危険も非常に大きい。この銃も適任ではない。
ソードオフ・ショットガンの真下に置いた銃を見る。
銃の上部が大きく開いたデザインの、鈍い鋼鉄の黒一色、9ミリ口径の自動拳銃。
ベレッタ92。世界的に有名な拳銃で、最近のアクション映画には必ずと言っていい位、
一挺は登場するほどに顔の知れた銃だ。
握りやすく、ゆるやかな曲線を描いたグリップ。
通常の拳銃にしては少々大きめだが、隅々まで配慮された設計のお陰で握りやすい。
よく見ればこのベレッタは、スライドの刻印や塗装、
プラスチック製のグリップのロゴマークが本家の物とは異なる。
本家のイタリア製、ベレッタ92FSのグリップの中央には、
円の付いた三本の矢が彫られているのに対し、
こちらのグリップには「MAS」と社名が彫られている。
フランスMAS社でライセンスを受け、生産されたベレッタの兄弟、
ベレッタ92Gだ。一部安全装置の仕様が異なるが、基本的には同じ拳銃である。
これは前日の朝に、ルルがスキンヘッドの大男から奪い取ったもので、
整備こそほとんどされていないが状態は良く、まるで新品同様だ。
この銃は威力こそ平凡なものの、15発の装弾数と、
各国の軍隊や警察で、数十年間も愛用される程の使いやすさがある。
弾詰まりの心配も少なく、連射時の安定性もそこそこ良い。
この銃が適任だろうか。そう考えている矢先に、運転席のドアが開いた。
反射的に、フェリエッタは手元にあったそのベレッタを拾い上げ、安全装置を親指で外す。
左手で、上部のスライドを叩くように引いて弾を装填し、
ドアを掴む影に両手で銃を構えて突きつける。それにかかる時間は、僅か0.3秒。
銃の後部、安全装置の解除を示す赤点が、黒一色の銃に映える。
「ふぅ、少々遅くなりましたにゃ」
案の定、そこに立っていたのは、白銀の髪をなびかせるルルだった。
随分急いで来たのか、肩で息をしている。
フェリエッタは銃の暴発を防ぐため、セフティを操作する。
起きた銃の撃鉄が静かに戻り、鉄の獣の臨戦体勢が解かれる。
燕尾のジャケットをめくり上げ、背中側のベルトにベレッタを挟みこむと、
左のドアを開けて、車の後ろ側を回ってルルに歩み寄る。
「どうだった?」
「見張りを4人殺しました。若い女性が1人、地下室に監禁されてますにゃ。
麻薬を打たれて、朦朧としてます。あとコンピューター室に、恐らく他の被害者の情報が」
「その見張りの遺言にあった、あのタピアとかいう男は?」
「地下室でその女性を虐げていたので、血みどろにしてから首を吊り上げてやりました。
恐らく、まだ懺悔の最中ですにゃあ」
「君らしい仕留め方だ。早速、その女性を助け出すとしようか」
「にゃふふっ、奴にトドメを差してやるのも一興ですよ。
・・・それからご主人様、ちょっとしたプレゼントが」
そう言うと、ルルは肩紐で背中に背負っていた、
2挺の散弾銃の肩紐を持ち、フェリエッタに差し出した。
両方を受け取り、片方の散弾銃を脇のミニ・クーパーに立てかけて、肩紐を取り外す。
濃い茶色の木製の肩当てと同じ材質の、先台と呼ばれる銃身下の握り。
先台は前後せず、銃身の下に固定されている。
レミントンM1100。狩猟や、一部の警察機関等でも使用されている、
半自動式の散弾銃だ。
広く警察や軍隊で普及している散弾銃は、
一発撃つ毎に手動で先台を前後させる必要があるが、
この銃は発射時に発生するガスの圧力を使い、
次の弾を装填するタイプで、引き金を引くだけで次々と発射する事が出来る。
しかし代償として、何かの拍子で内部に弾が引っかかってしまうと、
通常の散弾銃よりも復帰に時間がかかる。
裏口の見張りと、屋上の見張りが持っていた、あの散弾銃だ。
立てかけた銃を交換し、2挺目の肩紐を外しながら、フェリエッタは疑問を口に出す。
「裏口の男の首をこれで叩き折るのは見てたけど、屋上の男はどうやって?」
「通風孔を出てから時間が30秒ほど余ったので、上まで登って吊るしておきました」
フェリエッタが目を凝らして、木々の間に覗く屋上を見る。
ルルがよじ登った雨どいの上に、見張りの男がぶら下がっているのが微かに見えた。
どうやら、彼はルルにネクタイを雨どいに引っ掛けられ、絞首刑に処されたようだ。
フェリエッタが銃を選ぼうと、建物から目を離した僅かな隙に。
「・・・毎度、君の手際の良さには、畏怖すら感じるね」
「にゃはははっ。ご主人様には敵いませんよ。・・・所で、どういう作戦にします?」
「裏口は開けられそうかな?」
「出来ますけど、恐らく警報が作動しますにゃ」
「よし、私が正面入り口から入るから、騒ぎが起きてから裏口を開けて入るといい」
「強行突破ですにゃあ?」
「その通り。恐らく弾数が必要になる。予備の弾は持ってるかい?」
「マガジンが2つあります」
「銃に入った弾も合わせて、24発か」
「他に刃物が9本ありますにゃ。十分すぎます。そう言うご主人様は?」
フェリエッタは、肩紐を外し終えた散弾銃をミニ・クーパーに立てかけると、
左右均等に並んだ6つのジャケットのボタンを光らせながら、
燕尾の裾を両手でめくり上げた。漆黒の王子のような乗馬ズボンの上。
両太腿の上の部分に、赤い革製のガンベルトに収められた、
2挺のコルト45オートの赤茶色のグリップが、正面側を向いて収められている。
細身で黒い尻尾が下に覗く背中側のベルトには、まるで小さな羽根を模すように、
ルルに渡そうとした32口径の拳銃と、先程の9ミリ拳銃が直接挟み込んである。
その周りをぐるりと覆うように、携帯電話程の大きさの革製のポーチが隙間無く取り付けられている。
前方に8つ。後方にも8つ。前方の一つに付いた、ポーチの蓋をフェリエッタが開ける。
その中には、左右の腰に下げられたコルト45用の弾倉が、二つ束ねて入っていた。
一つの弾倉に入る銃弾の数は、7発。
一つのポーチにはそれが二つずつ、計14発が収められている。
14発入りのポーチが16個。銃自体にも7発ずつ装填されている。つまり。
「いつもの45口径が、238発ある。予備の32口径が21発、昨日の9ミリが15発。
両方の靴に切り札が2発ずつ。合わせて278発。この狩猟向けのショットガンが
フル装填なら、両方に4発ずつ、全部で286発ある事になる。少々、足りないかな?」
「ありすぎですにゃ。いつも思いますけど、よくそんなに重い物を下げてられますにゃあ・・・」
「コレが無いと私は、ただの猫同然だからね。それに、帰る頃にはずっと軽くなる」
ポーチを閉めてジャケットを下ろし、
ただの猫のように、拳を丸めて手招きをするフェリエッタ。
笑みを浮かべながら紹介した銃の数は、服に隠しているだけで6挺。
銃本体の重さだけで4キロ以上ある。
さらに、スチールの箱に収められた、無数の鉛の弾薬の総重量は5キロ以上だ。
立てかけていた二つの散弾銃のグリップを、両方の手に握る。
加えて、二挺の散弾銃のそれぞれの重量は3.5キロ。
武器弾薬の総重量、合わせて16キロ。
左手の散弾銃を肩に担ぎ、一歩一歩と地面を踏みしめるように、
ゆっくりと崖へと歩く。ルルもそれに続いて、急斜面へと歩を進める。
斜面を見下ろす。角度は45度かそれ以上。断崖絶壁には、
道を遮るように点々と針葉樹が生えている。人間であれば、ロープが必要だ。
フェリエッタはウェーブのかかった漆黒の髪と、両耳を風になびかせながら、
崖下へと降りる方法ほ少し考える。足元を見つめる。先広がりのズボンの裾から覗く、
丸いフォルムの大きな自分の靴が目に入る。底と爪先には鉄板が入っていて、
多少、ガラス片の上や古釘を踏んだ程度ではびくともしない。
にやり。妙案を思いついたフェリエッタは、猫のように微かに微笑むと、
両手の散弾銃の安全装置を押し込んだ。くるりと同時に、両手の銃を反転させる。
そのまま下へ落とすように銃身を掴んで、銃の肩当てを草の生える地面へと当てた。
そして、そのまま斜面へと大きく跳ねて飛び降りる。
ズザアアッ。靴底でスキーをするように、足を前後に大きく広げて坂道を滑降する。
目前に細い木が迫りくる。すかさず、左手の散弾銃の肩当てを地面に押し付け、
スキーのストックを使うように、軌道を変えて針葉樹をかわす。
右に、左に木々をかわし、坂の終点で大きく体を斜めに傾けてスライディング。
左右の銃を入れ替えるように手から離し、宙に浮いたそれぞれのグリップを握りこむ。
フェリエッタが立ち上がり、後ろを振り返る。
ルルは空中で、木々を交互に蹴飛ばすようにして跳ね回りながら、
フェリエッタの左後ろに軽い音を立て、両足で立って着地する。
彼女の風に揺れる髪とは裏腹に、急な動作がピタリと停止して、辺りは無音に帰る。
ザザッ。ルルがコルセットに挟んでいた無線機が、歪なノイズを立てる。
「こちら監視室。 正門、状況を報告しろ。繰り返す。直ちに状況を報告しろ。」
どうやら、定時の状況報告が回ってきたらしい。
もう2分もすれば、ルルが潜入した事が発覚するだろう。
「ではご主人様、私は裏口で待機してますにゃ。銃声がしたら中に入ります」
「気を付けて。曲がり角の先と、ドアに注意だ。よく待ち伏せしてる奴がいる」
「にゃふふっ。ご主人様こそ。・・・間違えて、私を撃たないで下さいよ?」
「なるべく気をつけるさ。それじゃあ、中で合流しよう」
ルルはいつものようにウインクすると、足音もなく裏口へと走り去る。
フェリエッタはそれを見送ると、両方の散弾銃の安全装置を外し、
銃身を立てるように、2挺を肩に担いで正門へと向かう。
ふと、茂みの中に転がった物を見つける。少し考えて、軽く二度頷いた。
「・・・使えるな」
To be Continued...
※ この小説は、
作者の明晰夢を元に再現した
フィクションです。